生きる智慧

2807
2017-12-14
作者: ケンポ・ツルティム・ロドゥ
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2017年1月19日

中央大学(多摩キャンパス)

11号館 総合政策学部棟教室

 

学生の皆さん、こんばんは。今日は皆さんとこうしてお話できる機会に恵まれたことをまことに嬉しく思っています。私はこれまで世界の数多くの大学や学校を訪れ、様々な人種の方々と交流してきました。肌の色の違いこそあれ、人は皆、「心」においては同じなのです。

ここにいる皆さんは若く、人生これからだと思います。人生というのはある意味、映画のようなものです。そして私たち一人一人がその映画の出演者なのです。しかしその映画には台本というものはありません。台本のない映画を演じるのはとても難しいものです。

私は海外の多くの老人ホームを訪れ、入居者といろいろとお話してきましたが、そこでは多くの人々が自らの人生を悔いていました。何故かというと、彼らは人生という映画の中で、どう演じたらよいか分からぬままに過ごしてしまったからです。

世界はこれまで「いかに生きるべきか」という物語をたくさん作ってきました。でも現在の私たちはこうした物語にさほど関心を抱けずにいます。それというのも、そうした物語と今とでは時代背景が異なるため、今の人たちのライフスタイルにそぐわなくなっているからです。

そんなわけで、私たちは今の新しい時代に合った人生の物語の「台本」を新たに作る必要があるのです。そしてその「台本」は自分自身で書かなければいけないのです。その「台本」を書くに当たって、まず考えなければならないことがひとつあります。それは「人間とは何か?」ということです。まずこの定義をきちんと理解しなければなりません。

人間の半分は物質的な「血と肉」、もう半分は「心」で構成されています。この点については、何かの宗教を信じている人もそうでない人も、仏教を信じている人もいない人も、皆同じです。人間であるからには、必要なもの、欲するものが2つあります。1つは物質的なもの、例えば食物や水や空気などであり、物質的存在である人間に必要不可欠なものものです。もう1つは、心にとって必要なものです。そうしてみると、人間の生活には、「物質的生活」と「心の生活」という2つの側面があると言えるのです。

現代人の生活を見ると、物質的な側面に関しては、皆さん豊かであると言えます。しかし「心の生活」という側面ではとても貧しいのです。物質的な側面においては、十分な食べものがない、水がない、着るものがないと誰もが苦しむことになりますが、それは皆、理解できることと思います。

さらに心、精神にとって必要なものもあるはずですが、それが何なのか、私たちには分かっていないのです。そのために、私たちは人生の中で多くの困難に遭遇するのです。私は皆さんのような大学生や大学院生と、数多くの対話を行ってきましたが、誰もが多くの悩みや心の問題を抱え、どう対処したらよいか分かっていないようでした。そうした問題を解決できずにいると、時間が経つにつれ、それが心の病へ、さらには学業低下にも繋がっていくのです。

そんな状況に陥ると、仕事をするにも勉強をするにも、他の人と関わるにも、何をするにも悪影響が出てきます。それが深刻になってくると、最後には自殺にまで追い込まれるかもしれません。世界には自殺者が多いことで知られる国が10 カ国あります。私はその10 カ国のほとんどを訪れたことがあります。それらの国は環境的には申し分なく、とても気持ちのよい場所ばかりです。しかしそれらの国の人たちを見てみると、どれだけ美しい環境にいてもそれを十分に楽しみ、享受することができていないように見えます。それは非常に残念な状況だと言えます。つまり必ず「心の健康」が必要なのです。そのために何かの宗教を信心しようと、あるいはしまいと構いません。たとえばキリスト教が自分に合うならキリスト教を、仏教が合うなら仏教を信仰すればよいでしょう。それぞれ自分に合ったものを信仰すれば、あるいはしなくてもよいのです。大切なのは「心の健康」です。

世界の大学のなかでも最高峰といわれる大学においても、いま鬱病を患う学生が非常に大勢いると言われています。例えばハーバード大学では、約40 パーセントの学生が鬱病か、何らかの心の問題を抱えていると言われています。ハーバード大学には世界各地の一番優秀な学生が集まってきます。それぞれの学校にいる時は、学校随一の秀才であり、自分を凌ぐものなど誰もいないと自信たっぷりです。しかしその後、ハーバード大学に来てみると、自分と同じような非常に優秀な生徒ばかりなので、その中で一番を取るのは難しくなってきます。すると、彼らは自分自身を責めるようになるのです。自分はダメだ、バカだと。このように心を病み、薬を飲むようになり、大学にいられなくなって、退学してしまう生徒もたくさんいるのです。あるいは嫉妬のあまり、同級生のお茶に毒をいれて殺害をはかるなどという事件も起きるのです。ハーバード大学だけにとどまらず、世界各地のトップクラスの大学でも同じような状況があります。ですから、自分の心をしっかりコントロールする術を知ることが一番重要なのです。

物質的なもので、何が必要かは分かりますよね。喉が乾けば飲み物が必要であり、寒かったら上着を着るとかです。しかし、心にとって何が必要かを、私たちの多くは理解していません。皆さんの中には、もしかしたら分かっている方もいるかもしれませんが。そこで、皆さんの中で、4名の方、男性の方2名、女性の方2名に、「心にとって必要なものは何か」を、お答えいただきたいと思います。これは宗教の話ではありません。一人の人間として人生を豊かに送るためには何が必要か、という質問です。誰が答えても結構ですよ。こうやってみんなで考えることはとてもよいことです。

 

学生1(女性) 心に必要なものは、「自分が今のままでよい」と思える自己肯定感ではないかと思います。

 

ケンポ・ツルティム・ロドゥ師(以下、ケンポ。敬称略)― 「足るを知る」、「満足」ということですね。

 

学生2(女性) 私は、心に必要なものは「癒し」だと思います。

 

ケンポ「癒し」ですね。分かりました。他には?

 

学生1(男子) 最初の方と似てますが、「自分を好きでいること」が大事だと思います。

 

学生2(男子)仏教で言えば「輪廻転生」ということになると思いますが、すべてのものが繋がっているという感覚は僕は大事だと思っています。

 

ケンポ皆さんありがとうございます。皆さんの答えの1つ目が「足るを知ること(知足)・満足」、2つ目は「心の平安・癒し」、3つ目は「自分を好きになること」、そして4つ目は「お互いが繋がっていること」ということですね。

とてもよい答えです。それら4つすべてが大事なことですね。それではここからは、この4つに関して、それらをどう実践するかについてお話していきましょう。西欧社会の考えでは、「足るを知ること(知足)」はよくないことで、「欲望は多ければ多いほどいい」という考え方をします。しかし、実際の人生において「足るを知」らなければとても大変なことになってしまいます。

例えばこう考えてみてください。まず、飲み物を飲む器がないとと、「紙コップがあればよいな」と考え、それを得るよう努力します。しかし、それが手に入ってしばらくすると今度は、「いや魔法瓶の方がもっとよいな」と考え紙コップは捨ててしまいます。そしてその魔法瓶もしばらくすると飽きてきて、「もっとよいものが欲しい」と考えるようになります。最初、何も飲む器がない時は、最悪ゴミの中から拾ってでも何か容器を探し、それが見つかれば、「やっと手に入った」と嬉しくなりますね。しかし、1 ~ 2 時間もするとその嬉しさは消えてしまいます。そして「もっとよい器が必要だ」と考えるようになるのです。そうなると、よいものを買うためにお金が必要になり、それを稼ぐために一生懸命働かなければならなくなります。その労働のために、多くの時間を割く必要がでてくるのです。しかし、その「時間」というのは、私たちの「生命(いのち)」そのものです。人の一生は時間にすると70 万時間ぐらいしかありません。そして、そうしたお金を得るために多くの時間を労働に割くと、それは心のストレスをも生むことになります。

それら苦労の結果として、ようやくよい魔法瓶を手に得ることができるのですが、ひょっとして思ったほどの喜びは感じられないかもしれませんし、もし感じたとしても2、3 日魔法瓶を使ううちに、その感情も薄れていくにちがいありません。さらに、自分のクラスメートが自分よりよい魔法瓶を持っていたら、「今のを捨てて彼が持っている魔法瓶と同じものを買うんだ」と思い始めるかもしれません。

人によっては何十万円もするブランドもののバッグや時計などが欲しくてたまらなくなり、そのために大変な苦労をし、お金をねん出するために、悪い仕事に手を染める人もいるかもしれません。

これが最初にお話したまさに台本無き人生です。1つを手に入れても、すぐにそれをうち捨ててまた新しいものを手に入れたくなる。それが際限なく続き、いつになったら満足できるのか、自分でも分からない。このことからも分かるように、私たちの欲望というのは際限なく大きくなっていくのです。モノ自体がどれだけよいものであっても、それを獲得したことによって得られる満足感はわずかなものです。そのわずかな満足感をもって「心の欲望」を1つずつ満足させようとしても、それを達成することは不可能でしょう。

したがって、先ほど一人の学生さんのご意見「足るを知る(知足)」は、とても重要なことなのです。多くの人が「足るを知る(知足)」は宗教に基づく考え方だと言いますが、それは違います。そうではなくて、人間であれ、モノであれそれぞれの実際の「価値」を知ることが大切なのです。

例えば、自分が魔法瓶を持っていたとして、最初のうちは「ああ、私はよい魔法瓶を持っているな」と満足しています。しかし、友達が自分よりよい魔法瓶を持っていると分かった瞬間に、今の自分の魔法瓶に満足できなくなります。しかし魔法瓶自体は何ら変わってはいないのです。昔も今も同じです。何が変わったかと言えば、自分の心が変わったのです。

世界の大富豪は、「足るを知る」タイプと「足るを知らない」タイプの2つに分けることができます。1つ目のタイプは、人生の台本をきちんと用意しているタイプの人たちで、大金持ちになった後に、貧しい人たちへの支援をしたり、学校や病院を建てたりと、よき奉仕活動へと向かっていきます。もう一方のタイプは、― ほとんどのケースがこちらですが、お金やモノが十分すぎるほど手に入り、衣食住ともに世界最高級クラスのものが手に入る環境にあるのに、それでも真の心の幸福を得られないのです。彼らは「足るを知る」を分かっていないので苦しみ、麻薬やギャンブルに手を出して、最後には人生を棒に振ってしまうのです。

では「足るを知る」ということを、実際にどのようにして実践していけばよいのでしょうか?人間で言うと、私たちにはみんなそれぞれ特徴がありますね。まずは自分の特徴というものを理解する必要があります。そして、物質的なものにもまた、例えば紙コップなら紙コップなりの価値が存在します。私たちはそのそれぞれの価値を理解する必要があるのです。例えばお茶を飲む時に、「ああこれは魔法瓶で飲むとよいな」と考えて、それを買うためにお金をためてもよいですし、もしそれが手に入らなかったとしても、「他のものでも― 例えば紙コップでも問題ないし」と、楽に考えることができればよいのです。これが、1つ目の「足るを知る」ことについてのお話でした。

そして2つ目は「癒し(心の平安)」ということが出ましたが、これは非常に大事なポイントです。ここからは、このことについてお話したいと思います。

世界の多くの人にとって、心とはいつもせわしく動き回わっているものであり、落ちつかせようにも落ちつかせることのできない、海の波のようなものです。そんな心に静けさや平安が得られれば、勉強であれ何であれ、とても捗るようになるはずです。ですから人生の中で心の平安を得るのはとても重要なことなのです。心が安定し、安らいだ状態に留まることができたなら、何らかの困難に遭遇しても、それに対処できるようになり、幸せを得たら得たでそのまま享受できるようになります。

ではどうやったら心の平安を、安らぎを得ることができるのでしょうか?それには瞑想が効果的です。皆さんもご存知かもしれませんが、アメリカやヨーロッパでは今、特に教育機関の中で、瞑想が非常に普及しています。アメリカ政府もすでに多大な予算を投じて瞑想の効果について調査・研究をしています。

現在、アメリカのバージニア大学の周辺地域で1 万人の学生を対象に実際に瞑想法を実践してもらい、瞑想の効果を調査しているそうです。対象の1 万人中すでに2,500 人の調査が終わりました。どのような調査かというと、被験者にさまざまな写真を見てもらうのだそうです。上の段には被験者が好きな人、仲のよい人たちの写真を並べ、下の段には被験者が嫌いな人たちの写真を並べ、写真を1枚ずつ見てもらう。ずっと見てもらって嫌いな人の写真が出てくると、まだ瞑想を実践していない段階では、それがすぐに表情に現れてしまう。その表情を撮っていることは被験者に伏せて実験しています。表情に出るということは心の中で嫌いという感情が芽生えていることを示しています。そのあと、1 週間のあいだ瞑想を実践してもらい、その後でまた同じ実験をしてみると、瞑想効果で、さっき言ったような感情の変化がなくなっていたそうです。

今、アメリカでは瞑想の実践をする人の大半は学校の教師や学生や医師であるそうです。ですから、皆さんも、宗教を信じる信じないはさておき、瞑想の実践をしてみるとよいと思います。瞑想は先ほどのお答え「心の癒し」に非常に効果があると思います。心の癒しや安らぎを得ることができれば、学業の面でもきっと役立つに違いありません。「瞑想は宗教的なものだ、私は宗教とはかかわらない」などと考えるのは間違いです。瞑想とは「心を学ぶことであり、心を鍛錬すること」なのです。

例えば、身体もほどよい運動をしなければ、病気になってしまいますよね。心も同じで、心の訓練をしなければ、心の病になってしまいます。

瞑想の中で一番大切なのは「慈悲」の瞑想です。「愛と慈悲」というのはまさに仏教の核心です。なにも仏教を信仰していなくても問題ありません。仏教に信心がなくても「愛と慈悲」について瞑想していいのです。では、「愛と慈悲」とはなんでしょう。慈悲とは、他者の苦しみに思いを馳せること、他者が苦しんでいるのを目にした時、それに同情することです。「あの人の苦しみが無くなればいいなあ」と願い、祈ることです。

仏教の観点からすると、今日皆様があげてくださった4つの事柄はすべて仏教の考え方の中にあるものなのです。「足るを知る(知足)」は仏教でとても重要視されている考え方です。「癒しや心の平安」はさらに仏教の核心となるものです。どうすれば「足るを知る」ことができるのか、どうしたら「癒しや心の平安」を得られるのか、すべて仏教の教えの中にあります。仏教徒であろうとなかろうと、仏教のテクニックを利用していいのです。今アメリカで瞑想の実践をしている人の全員が仏教徒というわけではないのです。信仰のある人、ない人それぞれ沢山います。

それでは3つ目の話題に移りましょう。先ほど「自分を好きになる」を上げてくださいましたよね。そのことについて少しお話したいと思います。私には、皆さんのような一般人の友人が― 袈裟をまとってない知人が沢山います。友人たちの中には「自分を嫌いな人」が沢山います。こういう人たちは普段は自分のことが好きなのですが、勉強や仕事がうまくいかないと、例えば勉強なら試験でよい点数を取れないと「自分は頭の悪い、駄目な奴だ」と考えて自分を責め、1つうまくいかないともうダメだと自己嫌悪に陥るわけです。そこから心に苦しみが、ストレスが生じてきます。仏教ではそれをよくないものとみなしています。私たちは自分自身を好きになる必要があるのです。

ではどうすれば自分を好きになれるのでしょうか? 例えば、10 人の人が水のない砂漠の真ん中にやって来たとしましょう。その10 人のうちあなただけがペットボトルの水を持ってきています。その際、「これは自分の水だから自分だけが飲めればいい」などという利己的な考えを抱くなら、それは「自分を好きになる」ことの本来の意味に背を向けることになります。自分だけ水を飲めば、一時的には喉の渇きが癒され、幸せな気分になれるかもしれませんが、後になって、後悔するに違いありません。「友人に水を分けようともせず、水を独り占めして飲んでしまった」と思い、もしかしたらその後悔の気持ちは、一生残るかもしれません。反対に皆、喉が乾き、苦しんでいる時に、自分の持っている水を分けあたえることができるなら、自分の取り分は非常に少なくなるかもしれませんが、それによってとても幸せな気分になれることでしょう。その後の人生でもそのことを思い出すたびに、その時に感じたのと同じ幸福感を味わえるかもしれません。

つまり他者を助け、利他行を行うことで、私たちの心に幸福感が訪れるのです。もしあなたが鬱病を患っているのなら、社会に奉仕し、他者の役に立つようなことをやってみてください。例えば1 日の中で他者の役に立つことを5 回行うと決めて、それを1 週間続けてみるのです。するとその1 週間の間、薬を飲んだり、なんらかの治療をしたりせずにいても、鬱がかなり改善されるか、治ることだってあるのです。利他行とは他者の役に立ってあげることのように見えますが、やってあげる方も、それによってとても嬉しい気持ちを味わえるものなのです。

日常生活のなかで、私たちは自分のモノは自分のためだけに使い、それが幸せなのだと思いこんでいます。しかし実のところ、自分が持っているものを、本当に必要としている人たちにわけ与えることができるなら、その時生まれた幸福感は長らく心に留まり続けるのです。学生でも、小さい時から他者にわけ与えること、他者の役に立ってあげることを少しずつ学んでいけば、その後の人生に大いに役立つにちがいありません。

それでは、4つ目の「すべてのものが繋がっている」ことについて少しお話ししましょう。人生では「よい友人」を何人か持つことがとても大切です。例えば、向こうに標高1,000m ほどの高さの山があったとしましょう。たったひとりで大荷物を背負ってその山を目指す人に、「あの山の高さはどれくらいでしょう?」と聞くと、「1,500mくらいですかね」と答えるそうです。ところが、何人かの友人とともに荷物も分けあって同じ山を目指す人に同じ質問をすると、「600mくらいかな」と実際より低く見積もるそうです。この話は心理学の研究の1つの事例です。つまり、私たちにとって「友人」とは、自分のエネルギー源、たとえてみればバッテリーのようなものなのです。

ではどうすれば、「よい友人」が得られるのでしょう? それは「誠実さ、正直さ」によってです。誠実で正直でなければよい友人は得られないでしょう。学問を学ぶにも、仕事をするにも、誠実で正直であることは本当に重要なことです。ではどうして正直さが必要なのか、そしてそれをどのように実践したらよいかについては仏教の教えの中に沢山説かれています。仏教を信じようと信じまいと、その教えを少し勉強してみれば、皆さんに役立つことが沢山書かれていることが分かると思います。仏教は人生に非常に役立つものなのです。それは私の経験からも確なことです。

私自身の過去を振り返ってみると、今の皆さんのように、恵まれた環境にあったわけではありません。仏教の勉強を始めた当初はとても貧しく、きわめて厳しい環境の中にありました。昔は電気も通ってなく、飲み水もろくになく、電話もありませんでした。そんな厳しい環境の中で本当に努力して勉強に励みました。それでも心はとても幸せでした。人生には幸せな時もあれば、苦しい時もあるのです。その中で自分だけが幸せになろうと思っても、それは無意味な希望です。ものごとの本質、真理と言うのはそういうものではありません。私たちは何かに対して「そうである」と思い込んで、自分を騙して生きています。でも大切なのは、自らの心を訓練し教化することによって、よいことがあっても悪いことがあっても、それに正しく対応できるようにすることです。

今日は時間の関係で、ごく一般的なお話となり、実際にどのように実践してゆけばよいかという細かいところまでお話はできませんでした。将来もこのような機会があれば、喜んで続きをお話したいと思います。それでは皆さんご清聴ありがとうございました。

 

質疑応答

 

学生(男子) とても程度の低い質問をさせていただきます。僕のようなごく普通の世界に生きている人間と、悟りを開いた人や解脱をした人が見ている世界はどのように違うのでしょうか? 悟りを開いた人というのはご飯を食べていたり、トイレで踏んばっている時、どのような世界が目の前に広がっているのでしょうか?

 

ケンポ わあ、あなたの質問はとても低いレベルとは言えませんね。きわめて高いレベルの質問です。あなたは『マトリックス』という映画を見たことがありますか?

 

学生ないです。

 

ケンポ まず、その映画を観てみてください。映画『マトリックス』が描くのは、すべてがコンピューターによってプログラミングされたものによって成りたっている世界です。ある人がこの部屋を見ると、それは「建物」ではなく、「0」と「1」で成り立っている数字にしか見えません。ところが別の人が見ると数字なんかでなく、そこには人間がいて、部屋であり、食べ物があり、水がある世界に見えるのです。つまり人それぞれの認識の仕方、見解の違いによってそれぞれ目にみえる世界が違うのです。そこで先ほどの質問ですが、悟りを開いた者であっても、生活の場では普通の人と同じように食べたり、服を着たりしているのです。その映画を観てみるとよいと思います。その映画は仏教の哲学を反映したものです。この中でその映画を観たことがある学生さんは何人くらいいますか? あまりいないですね。皆さんぜひ観てみてくださいね。いまはネットでも観られると思うので、ぜひ。(笑)

 

学生(男子)まず「マトリックス」は、この後、ツタヤに行って早速借りて観たいと思います。商業映画だと思ってバカにして、今まで観てなかったので、ちゃんと観たいと思います。

 2つ目の質問ですが、先ほど先生から「心の病から自殺するのは非常に悪いことだ」というお話がありましたが、では「積極的な自殺」について、チベットの死生観ではどう捉えているのでしょうか。日本には小説家の三島由紀夫という方がいました。彼は初めから45 歳で自殺しようと決めて、実際にそれを実行したんですね。まあこれは特殊な例ですけど、最近は安楽死とか尊厳死とか、病気になって非常につらい時など、自殺の選択をすることが世界的に肯定的に受け入れる動きが広がってきていますが、それについてチベットの死生観ではどう捉えるかお話ください。

 

ケンポあなたが今おっしゃったように、世界の有名人の中にはそのように宣言して自殺する人もいます。例えば、若い俳優が自分は40歳で死ぬと宣言したとしましょう。若いうちからとても美男子で、全世界的に有名になったけど、そのまま7、80 歳くらいまで生きて、世間に老醜を晒したら、人にも馬鹿にされ、本人の中にあった自分自身のイメージも、がらがら崩れ落ちてしまう。逆にもし若い時のイメージがそのまま世に残ってくれれば、100 年でも200 年でも人の心のなかに自分の若々しい姿が生き続けるかもしれない。それならいっそのこと若々しい姿でいられる間に死んでしまおうと自殺を選ぶのです。

仏教の観点からすると、それは自分の名声への大きな執着であり、それを理由に自殺するなどとても悪いことなのです。他人からの評価はよいにこしたことはありませんが、一番大切なのは自分の心を向上させることです。心を向上させることなく、他人の目を気にして自殺するのであれば、とてもよいこととは言えません。

それとは別に、非常に重い病気に苦しみ、最後に安楽死させてくれと自らお願いをする人も沢山いると聞きます。仏教の考え方からすると、そこに生命がある以上、生命に対して敬意を払うべきなのです。もちろん苦しみはあるでしょうが、それもまたこの世の摂理なのです。生まれ、老い、病み、死ぬ(生老病死)というのはすべての人に起こることです。そのことを理解し、自殺という選択をすべきではありませんし、苦しみがあるならば、その苦しみを取り除くために、自殺以外のなんらかの方法を探す努力をするべきだ、と仏教では説いています。

とてもよい質問でした。ありがとうございました。

 

質問者(女性)― 先ほど学生さんたちから「心にとって必要なもの」があげられて、それが最終的に仏教的な話にまとまったと思いますが、同じ質問を西洋の人にした時に、どういった答えが返ってきたのかをお聞きしたいです。

 

ケンポ そうですね、本当にいろんな答えが返ってきます。仏教に関係があるような答えもあれば、関係ない答えもあります。「こういった傾向があります」と一概に言えるものではないですね。本当に様々な意見が出てきます。今日出していただいた答えがみな大学院生の口から出たものなら私もそれほどは驚かなかったですが、今日ここにいる皆さんは学部の2年生、3年生くらいだと聞いています。そうであるなら、とても素晴らしい答えだったと思います。

皆さんはまだお若くて、これからが人生のスタートとなりますが、よりよき人生を歩むことができますよう、お祈りしております。