2017年1月16日
東京大学
伊藤国際学術研究センター 伊藤謝恩ホール
ケンポ・ツルティム・ロドゥ師(以下、ケンポ。敬称略)― 心についての対話を続けていきたいと思います。大学において、将来、知識と行をどのように関連付けていくべきかをお話したいと思います。
人とはどのような存在でしょうか? 一方では物質的な存在であり、また一方ではメンタルな存在です。つまり人は物質(身体)と心からなっているのです。物質(身体)と心からなっているわけですから、物質(身体)と心、それぞれの求めるものが違うわけです。
なにかの宗教を信じていようといまいと、人は皆、物質(身体)と心からなりたっており、その点では等しいと言えます。人は身体と心からなっているが故に、身体的欲求があり、心的な欲求があります。例えば花であるならば、水や太陽の光が必要であるように、心にとって必要不可欠なものがあるのです。そのようなわけで、人は物質(身体)の生活と心の生活という2種類の異なる生を生きているのです。
物質的存在としての人は― 人だけでなく他の動物も同じことですが― 水や大気や食べ物などを欠かせません。物質的生活をおくるのに必要不可欠なものが欠けてしまうと、私たちの身体は痛めつけられます。食べ物や水が手に入らなかったり、大気が汚染されたりすると、私たちの身体は苦しむのです。身体に必要なものが何かは、誰でも簡単に理解できるでしょう。喉が渇けば水が要る。お腹がすけば何か食べたい。凍えるなら、寒さよけになる家屋が欲しい。そのようなことは、誰にでも簡単に理解できると思います。
しかし物質的に全て満たされたとしても、心の欲するものが満たされなければ、心は苦しむのです。物質面において、私たち人類はとても進歩しています。世界各地の大都市を中心に、進歩の度合いは甚だしいものがあります。しかし、心がそれによって本当に幸せになったか、よりリラックスできるようになったかと問われれば、そんなことはないわけです。では、人の心は何を求めているのでしょうか?私たち自身、自分の心が何を求めているのか、分からずにいるのです。
私たちは2つの理由から食べ物を食べます。1番目は、お腹がすいたからで、それは身体の欲求に基づいています。2番目は、ストレスから食べてしまうケースです。ストレスが酷くなると過食になりがちです。西洋社会では、ひどいストレスに晒されると、甘い物を食べまくって肥満するケースもあるようです。私たちが食べ物を口にするのは、身体がそれを欲し、食べなければ生きていくことができないからですが、ストレスに駆り立てられて、食べなくてもよいものまで食べてしまうこともあります。実のところ、その時私たちに必要なのは食べ物ではないのです。にも関わらず、自分でもそのことが分かっていない。分かってないからこそ、ストレス解消に食べ続けるのです。このように、元々食べ物を摂るのは、身体に必要だからですが、そうではなく、心が欲しているために食べていることもあるのです。そして多くの人々は、その事実に気づかずにいます。
多くの人々が、甘いものを食べたがります。甘いものを欲する理由は、2つあります。1つは身体が欲しているからです。糖分なしでは私たちは生きていくことはできません。しかし、身体が欲してなくても、心が欲することもあるのです。甘いものを摂ると、心のストレスが少し解消される気がするのです。ですから、ストレスを感じている時は甘いものが欲しくなるのです。しかし、その時に甘いものを欲しているのは自分の身体なのか、それとも心なのか、自分でも分かっていない。そうやって甘いものをどんどん摂っていく。摂りすぎると肥満する。肥満するそのために病気になる。さらには肥満解消のため、時間をかけて、せっせと運動をしなくてはいけなくなる。
ストレスのあまり、過食に走ったり、甘いものを食べまくったりするわけですが、そのように食べまくる必要などないのです。ここですべきは瞑想なのです。しかし、今の私たちは、そのことに全く気付いていません。ですから、まずは、自分の心に何が必要か理解するようにしてみてください。
現代人は、心についてほとんど考えようとしません。心に何が必要か考えるどころか、物質的なこと、経済的な事ばかり考えている。そのように物質的な面ばかり追い求めていると、物質的な成功を収め、豪華な邸宅に住めるようになっても、結局は心が病んで不幸に陥ってしまう。心にも必要不可欠なものがあるのです。しかし、それが何か、自分でも分かっていない。
では皆さま方に質問です。心に必要なものとはなんでしょうか? この場におられる方で3人の方からお答えを聞きたいと思います。特に仏教徒でない方からのお答えを聞きたいと思います。
― 信心を持つことです
― 幸福を得て、苦しみが無くなることです。
― 望みが全て叶えられることです。
もう1人、意見がある方は?
― 意識を集中できることです
信心と答えられた方は、どうすれば信心が起きるか答えられますか?信心にも色々な形の信心がありますよね。お金を崇めるのだって一種の信心です。あるいは権力を崇める人だっていますよね。聖山やご神木や花などに神が宿っているとして、それらのものを信心の対象とする人もいますよね。太陽を信仰する人もいれば、月を信仰する人もいる。とすると、何に信心するかが問題になってきます。
幸福を得て、苦しみがないことだというご意見もありました。でもどうすれば苦しみを無くせるか分かっていない。
また、「望みが全て叶えられること」とのお答えもありました。それもまた、よいお答えだと思います。しかし、どうやったら全ての望みを叶えることができるのでしょうか? 世界にはたくさんの人々がいますが、全ての望みが叶えられた人はいませんね?
意識を集中することだと答えられた人もいます。しかし、何に対して意識を集中すればよいのでしょうか? お金をたくさん稼ぐこと? 勉強して、知識を蓄えること? 権力を獲得することに意識を集中すべきなのでしょうか?
このように、色々と考えることができます。皆さんのお答えは、どれもよかったと思います。間違った答えは、ひとつとしてありませんでした。しかし、こうしたお答えをさらに分析していくと、次から次へと疑問が湧き上がってきます。
心にとって必要なものとはなんでしょう? まずは自分の心を揺るぎなく、安定したものに変えていくべきです。そのためには心を訓練することです。心を訓練することなく、あれが欲しい、これが欲しいと思っても、その思いは尽きることがありません。人の生活は物質によって成り立つものと、心によって成り立つものの2つがあります。そのどちらであれ、貧すれば、苦しみが生じます。現代社会は、物質面では多大に進歩を遂げましたが、心を幸福にするためは、どうすればよいのかについて、ほとんど考えもしないのです。でも、心を進歩させることを考えなければ、いくら物質面で発展を遂げても、幸福にはなれないのです。物質面での発展ばかりに気を取られて、心について考えないのは間違っています。
では、現在の私たちの心の在り方はどうでしょうか?日本における自殺者数は、ピーク時と比べると多少減ったそうですが、それでも去年の自殺者は2万人を超えると聞きました。2010 年の統計を例にとると、全自殺者数31,690 名のうち、経済的な要因で自殺を遂げた人は7,438 名です。また鬱病などの健康問題で自殺を遂げた人は15,802 名、経済的に追い詰められて亡くなった人の2倍です。また家庭問題が原因で自殺した人は4,497 名、とはいえ家庭の問題は心の問題とも言えましょう。つまり、心理的に追い詰められて自殺した人の数は、物質的、経済的に追い詰められて自殺した人の数の3倍と言えるのです。
私たちは富を得るためにずっと努力してきて、物質的にそれなりに恵まれた状態にまできているわけです。にも関わらず、心の領域にろくに注意を払ってこなかった為に、毎年これだけの人が自殺を遂げているのです。そして自殺未遂者となると、その20 倍はいると言われています。
でも、心の病については、教育が役に立つのではないのでしょうか?東京大学は、世界に名だたる大学です。私は西洋世界の様々な大学に足を運んでいますが、社会が、そして世界が将来どのようになっていくかは、学校教育にかかっていると思うのです。東京大学は、ノーベル賞受賞者や首相を何人も輩出している大学です。未来の日本の経済や政治を司る人々が学ぶ学校なのです。
社会の中に、心を病む人々が大勢いるのも、学校教育が心の領域にまつわる学問をなおざりにしてきたせいだと思うのです。西洋での大学の起源は、修道院にありました。世界に冠たる大学の多くの起源は、僧院(修道院)にあったのです。僧院(修道院)だった時は、宗教が重視され、科学は軽んじられました。そのうち科学がより重んじられ、宗教は軽んじられるようになり、僧院(修道院)は無くなってゆき、大学だけが残ったのです。
しかし、僧院が司ってきた役割を大学が全て引き継ぐことができたかというと、そうではありません。逆に、大学の果たしてきた役割を僧院が全て果たすことができるかと問われれば、これまた否です。大学でも宗教を取り上げはしますが、研究の対象として扱うだけで、修行という観点から見ることはなく、どうすれば宗教が人の心に役立つかとは考えません。大学で研究された科学の成果のお陰で、私たちの生活は格段の進歩を遂げることができました。しかし、心をいかに進歩させるかについて、大学で研究されることはほとんど無かったのです。
大学における物理学や生物学の進歩は、目を見張るものがあります。しかし、これらと比べると、心の科学はこの100 年ほどさほど進歩してないのではありませんか? 多少の進歩はあったかもしれませんが、それほど進歩しているとまではいかない。大学では心の様々な領域について、いまだ研究ができていないのです。世界の大学の中で最高峰と言われるハーバード大学でも、多くの学生が鬱病になっています。自分で自らの心を分析することができないなら、どうして他人の心を分析することなどできましょうか?
ですから、将来において一番望ましいのは、科学と宗教の協力体制をとることです。進歩、発展というと、私たちは物質面での発展や、経済的な発展ばかり考えてしまいます。確かに経済面での発展も大切です。それは決して否定しません。しかし、心の発展はそれにも増して大切なものなのです。
世界において、現在、対立や争いが絶えることがありません。また環境問題や社会の格差問題もあります。そのような問題が生じた時、まずは自らの心を顧みて分析していくべきなのです。世界の大学が、心の領域の学問を、物質の領域の学問と同じように大切にしていかなければ、今後3、40 年の間に、私たち人類は間違った方向に進んでいってしまうでしょう。
また、大学において、人の心によい効果を与える瞑想などの行についても教えるべきでしょう。宗教の中には、心によい効果をもたらす教えはたくさんあります。もちろん、他にもっとよい方法があるなら、そちらを選択して下さってよいのです。別に何かの宗教に入信しろとか、なにがなんでも宗教について勉強しろと言っているわけではありません。しかし、物質と心という2つの領域を繋いでいかなければ、この世界に人類が存続し続けることだって難しくなるかもしれません。
では、どうすれば心の中の苦しみを取り除くことができるでしょうか? 現代の社会においては、心が病んだり、鬱病に罹ったりすると、医療費が掛かるわけですよね? しかし、瞑想するだけなら、お金は掛かりません。瞑想は、何かの宗教に信仰心を持っている人が実践してもよいし、なんら信仰心を持ってない人が実践してもよいのです。
次に、科学者がどのような説を述べているか、紹介したいと思います。
(スライドを見せる)
この方は、ハーバード大学医学部の教授で脳の研究にかけて、世界一の脳神経科学者です。
(自分の写真もみせて)こちらもとても有名な科学者ですね(笑)。これらの人々は、10 年かけて瞑想の効果について研究し、瞑想は心の病に効果があることを発見したのです。瞑想は鬱病に効果があるのです。そのため、現在のアメリカでは、小学校を含め、幅広く瞑想が実践されるようになっています。(スライドを見せる)
この方は、小学生への瞑想指導法を教えている先生です。米国のバージニア州では1万人の小学生を対象に、瞑想の実践がどのような効果をもたらすのかについての調査がなされ、既に2,500 人分の調査が終わったそうです。どうやって調査したのかというと、唾液のなかにある成分を調べたのです。その成分の度合いによって、その人のストレスの度合いが分かるのです。この唾液の成分の検査によると、入学してすぐの児童はストレスを感じることはないが、時間が経つにつれ、ストレスを感じるようになる。でもストレスを感じている時に瞑想すると、ストレスが消えることが、唾液の成分から確認されたのです。
また、こちらのスライドからも分かるように、米国の病院では、医師と看護師達が瞑想を行っています。次のスライドですが、彼女は米国の医学界では、とても有名な人物です。彼女が持っているのは、(彼女の記した)瞑想についての本です。米国では自殺率がもっとも高い職業は、医師と教師だそうです。この本では、慈悲の心を瞑想することの大切さが説かれています。この慈悲の心の瞑想を行うと、医者や教師といった職業の人々の心に、とてもよい効果を及ぼすようです。
医師や教師のみならず、グーグルのような大企業も瞑想を導入しています。大企業が瞑想を導入するのも、物質面からの支えではもたらすことのできない、よい効果があげられるからです。つまり、心の苦しみを取り除くという効果があるのです。そのようなわけで、現代の欧米諸国では、とても瞑想が流行しています。10 年後には、もっと流行しているはずです。日本もきっと、そうなることでしょう。
こうした瞑想は仏教に端を発しています。瞑想のやり方のあるものは、上座部仏教起源です。慈悲の心の瞑想は、チベット仏教に端を発しています。また禅宗起源の瞑想もあります。いずれにせよ、全て仏教に由来する瞑想法です。でも、そうした瞑想をする時、別に仏教に信仰を持っていても、持っていなくてもいいのです。皆さんも試してみれば、仏教に信仰心を持っていなくても、その瞑想法を実践してみると心に効果があることが分かるはずです。
仏教の瞑想には、色々なものがありますが、その1つが数息観です。また止観もありますし、慈悲の心の瞑想もあります。無我や空性の瞑想もあります。仏教の観点からいうと、これらは全て方便と言うことができます。これらの瞑想を活用すれば、皆さんの心によい効果がもたらされるでしょう。こうした方便を用いれば、新たな世界が見えてくるはずです。新たな知見が出てくるはずです。仏教で説かれている様々な方便を用いれば、本当に自分のために役に立つはずです。
日本では多くの方が仏教徒であると聞きました。しかし、仏教の見解、仏教徒のとるべき態度、仏教にどのような方便があるのか知らずにいる方も多いと思うのです。仏教徒であっても、ただ信心するだけでは充分とは言えません。仏教の教えについてよく学び、調べ、考える必要があります。特に若い方たちは、十分な教養をお持ちでしょうから、一旦学び始めたなら、その内容がよく理解できるはずです。
今回は時間もありませんので、実際の瞑想法についてお話する時間がありませんでした。それについては、また機会がありましたら、是非お話したいと思います。皆様、ありがとうございました。
質疑応答
― 先ほどケンポは、心に雑念のない状態を智慧だと言われました。
では、どうすれば自分が雑念の無い状態だと知ることができますか?
また、どのようにすれば雑念の無い状態を保ち続けることができますか?
ケンポ― 一切の雑念(妄分別)の無い状態を「止」と言います。
そのような状態に1日30 分、あるいは20 分留まるようにしてみてください。すると、心が不快な状態にあったり、苦しみに苛まれたりしていても、そこから解き放たれるはずです。例えば、仕事が多すぎて、ストレス過多になると、夜眠れなくなってしまうことがあります。そんな時、夜眠る前に20 分ほど「止」の瞑想を試みれば、よく眠れるようになるはずです。瞑想の仕方については、色々ありますので、時間をかけて勉強してみてください。
― 瞑想する際の座法はどうすればいいのでしょうか? 目は開きますか? それとも閉じるべきでしょうか?
ケンポ― 瞑想の際の座法ですが、このスライドにあるような大日如来の七つの座法をとるのがよいのです。
瞑想中に、目を閉じている人は結構多いですよね。目を開けていると、外の世界のたくさんのものが目に入ってしまう。すると、心に色々な雑念が湧いてきて仕方なくなる。それを避けるために、目を閉じて瞑想する人も多いと思います。けれども、仏教では目を開けて瞑想するようにと教えます。何故かと言うと、目を閉じて瞑想すると10 分位のうちに睡魔に襲われるからです。
蓑輪― まだまだ訊きたいことはございますが、ここで本日のフォーラムは終了とさせていただきたいと思います。今日の講演では、現在の私たちが持っている知のあり方に加え、身体性を伴った新しい知、そこに、これからの知を考えていくための、何かヒントがあったのではないかと思います。ケンポ・ツルティム・ロドゥ師に盛大なる拍手をお願い致します。どうもありがとうございました。