新時代における学と行を問う 蓑輪顕量教授との対談

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2017-12-11
作者: ケンポ・ツルティム・ロドゥ
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2017年1月16日

東京大学

伊藤国際学術研究センター 伊藤謝恩ホール

 

蓑輪顕量先生(以下、蓑輪。敬称略)― 東京大学大学院・人文社会系研究科・インド哲学仏教学研究室主任教授の蓑輪顕量と申します。東京大学・インド哲学仏教学研究室は、明治12年、漢文学講座のなかで仏書購読が行われたことから始まりました。本研究室は、インド哲学から始まり、インドで成立した仏教、そして、日本仏教を含め、インドからアジア全域に広まった仏教を研究対象としています。

本日の東京大学・国際仏教者学術フォーラム第一部は、「知と心の行方」と題し、現代社会が抱える問題に対して、心と智慧にフォーカスを当て、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師と質問形式で対談を進めたいと思っております。

まず、現代社会が抱えている問題は、西洋近代哲学が生み出した、人間の捉え方に原因があるように思います。それは、物質と精神に世界を分けたデカルトに由来すると、一般には言われます。そして近代的な知は、その淵源をギリシャ世界に端を発しています。

我々は、頭の中で考えることのみを知としてとらえる傾向があり、デカルトの「我思うが故に我あり」という表現で言い表されます。そこにおいては、観念的思考が、つまり、私達の心が独り歩きしてできあがる欲望に基づいた概念を主とする知が、中心に存在しています。そこから得られた知恵が、現代文明を築いてきたことは否めません。しかし、その一方で、地球規模の環境破壊、温暖化、紛争など、多くの問題の原因は、止まることを知らない概念の知が生み出したものとも言えましょう。

日本の哲学者・中村雄二郎の整理によれば、概念知と対比される言葉に、体験知・実践知が存在します。体験と言う言葉から推察されるように、そこには人間の身体が大きく関わっており、「身体性」は1つのキーワードになるように思えます。

そこで、仏教が伝えてきた瞑想、具体的には「心の観察」について、まず話を進めていきたいと思います。

仏教の修行は、大きく「止」と「観」に分けられておりますが、初期パーリ仏典には、その用語は、あまり散見されません。心の観察を伝える経典として重要な『サティパッターナ・スッタ(念処経)』には、念処という言葉が出てまいります。念処とは、「身体・感受・心に生じる働き・法」という誰にでも起きる心の働き、その4つを観察することを意味します。対象が4つであることから、日本では四念処と呼ばれています。

その一方で、日本仏教は中国の影響を強く受けており、止観と言う言葉が使われます。止観とは「止」と「観」の2つの言葉が合わせたものですけれど、その止観と四念処の関係が、実はあまりハッキリしていないように思われます。私自身は、四念処が仏教瞑想の一番の基本であり、現在、一般に使われている「観」という用語の中に、念処が含まれると考えていますが、ツルティム・ロドゥ師はどのようにお考えでしょうか?

 

ケンポ・ツルティム・ロドゥ師(以下、ケンポ。敬称略)― これは、とても重要な質問だと思います。ここに集まられた方々の中には、宗教を信じている人も、そうでない人もいるでしょう。しかし、何かの宗教を信じていようといまいと、幸福を望むという点では皆、考えは等しいのです。生活をよりよいものに、快適にするために、多くの学問が生まれてきました。特に西洋社会において、物質面の進化、科学の進化には著しいものがあります。しかし、先生が述べられたように、心の問題は増える一方です。もし、心に何か問題を抱えているなら、物質面が満たされていても、幸福を味わうことはできません。

例えば、目の前の花ですが、色も形もよい、とても美しい花ですね。皆さんは、この花を目にすると、総じて「ああ、いいなあ」と思い、幸福感を味わいます。そのためには、まず目が見えなければなりません。目が見えなければ、花の姿そのものが捉えられないわけですから。その次に、心が「この花はいいなあ」と思います。目という感覚器官で正しく花を捉え、心が「この花はいいなあ」と思って、初めて幸福感が生じます。目が悪くて花の形が捉えられず、心が「この花はいいなあ」と思わなければ、花自体がいかに素晴らしいものであっても、よい気分になることはないのです。

現代は、科学や物質面の進歩のおかげで、住み心地のよい家屋や自動車、スマートフォンなどを手に入れ、とても便利で快適な生活を送れるようになっています。しかし、それによってより幸福になれるかというと、また別な話なのです。現代は見栄えよく、高性能の品々で満ち溢れています。しかし、いくら物質的に恵まれていても、心に幸福感がもたらされるとは限りません。心を進歩させることこそ、肝心なのです。心を進歩させることができなければ、いくら物質面が進歩しても幸福にはなれないのです。幸福を得るためには、まずは心を進歩させなければならない。心が進歩して初めて、外なる世界の物質的な発展を享受できるのです。

仏教の瞑想法は大きく分けて「止」と「観」の2つに分かれます。仏教の全ての瞑想は「止」と「観」の2つの中に含まれ、それ以外のものはありません。「止」と「観」については、先ほど、蓑輪先生も触れられていたと思いますが、私もここで簡単に説明したいと思います。私たちの日々の心をたとえるならば、波立つ大海のようなものです。いつも様々な想念が湧き上がってきています。そのように心がひどく乱れた時、絶えず湧き上がってくる想念を減らすことができるか、試してみてください。心が乱れれば、不愉快な気分になり、悩みや苦しみが増えます。それを無くすことができなければ、心の不快な状態や苦しみは増す一方でしょう。そして、ついには心そのものが病気に、例えば鬱病などになってしまうのです。さらにそれが悪化すると、自殺する人すら出てくるかもしれません。

現代人は都会に住み、日々仕事に出かけ、忙しい生活を送っています。そんな忙しい生き方をするうちに、心は苛立ち、病んでいきます。そんな時、心をゆったり寛がせ、波ひとつ無い大海のような静まった心を持つようにしてみてください。そんな状態を「止」と呼ぶのです。

では「観」とは何でしょうか? それは、智慧(般若)です。私たちは、この世界のことを深い部分に至るまで理解しているわけではありませんし、自分の心さえ、よく分かってはいません。それどころか、自分自身のことでさえ、よく分かってはいないのです。そこで、智慧を用い、心がどういうものなのか、世界がどういうものなのか、人生とは何か、それを深い部分に至るまで、はっきりと知ることが「観」なのです。

仏教では「止」を灯明の炎に例えます。例えば、灯明の炎は風が吹くと揺らいでしまい、明るくハッキリと輝くことはできません。逆に、風がなければ、灯明の炎は揺らぐことはありません。この風に揺らぐことのない灯明が「止」であり、揺らがぬ炎の皓皓とした輝きが「観」です。これが「止」と「観」の違いです。

 

蓑輪では、具体的にどのように心を観察していけばよいのでしょうか?初期仏典にも、瞑想中の基本が説かれおり、その中にサティ(sati)とパンニャー(pannā)つまり、念と智と訳される用語が入っています。それは実際に、心の中のどのような働きを指しているのか、具体的にどのような観察をしていくのか、また仏典の中に出てくる念と智といわれているものが、実際にどのような働きを指しているのか、この点についても具体的にお話いただけますか。

 

ケンポまず念についてですが、四念処というものがあります。四念処の第1番目は身念処です。私たちの心の中には不快な思いや、煩悩があまた生じてくるわけですが、それらの多くは、身体に依って生じてくるわけです。ですから、私たちは自分たちの身体について、よく知る必要があるのです。智慧をもって、身体についてよく理解するのが、身念処です。同様に、感覚器官(受)や心や、諸法―これは外の物質世界にある全てのものを指しています―について、よく理解する必要があります。こうした、ものの真のあり方を理解することが四念処です。

次に、ご質問にありました、実際の瞑想行の中で、念と智慧(般若)がどのように関わってくるのか、という点についてお話したいと思います。例えば、今、私が手にとったこの花を― 花でなくても、外にある対象物なら何でもいいのですが―目という感覚器官を通じてじっと見てみてください。視線を上下左右に彷徨わせることなく、一切の雑念を断って、ただひたすら花だけを見つめるのです。そのような状態に留まることができたなら、一切の雑念から解き放たれた、なんの思考も起きてはいないけれども、心そのものが非常に明るく澄み渡った状態を体験することができるはずです。それは、今日の青く澄み渡った東京の空のような心の状態です。

その時、私たちは2つのことに留意すべきです。1つが念(dran pa)であり、1つは智慧(shes rab)です。例えば今、目という感覚器官を通してこの花を見ているわけですが、意識はひたすらこの花に集中して、なんら雑念がおきることなく、心と花が全くひとつになっている。それと同時に、心がとても澄みわたった状態にあるならば、それを念と呼ぶのです。心になんら雑念がおきず、とても澄み渡った状態にある時、それがどういう状態なのか、心がよい状態に留まっていられるのかどうか、心に雑念が起きているのかどうか、「止」の状態によい形で留まっているのかどうか、瞑想体験の中で、自らハッキリとそれを知ることができるのが智慧です。あるいは正知と言い換えてもよいでしょう。

 

蓑輪 今のお話の中で少し疑問が湧きます。実際に、私たちがひとつのものに集中する時、ものを見ている時は、日常でもあるわけですね。ですから、日常で見ている状態の時に、おきているのは念と考えるべきなのか、あるいは智と考えるべきなのか。智は瞑想状態の中でしか起きないものでしょうか?

 

ケンポ 日常生活の中でも、修行することはできます。まず、瞑想できるよう、心をよく訓練しなくてはいけません。そうすれば、日々の生活の中でも、念と正知(智慧)を起こすことができるようになります。例えば、車を運転している時、交通渋滞などによって、車が止められてしまうなら、そのわずかな間を使って瞑想をすれば、念と正知は起きるでしょう。日本の茶道の精神は、そこに基づいているのではないですか?

 

蓑輪江戸時代に書かれた茶道の書物「禅茶録」に、瞑想と非常に関わる記述が出てまいります。同書中の気続立という言葉が、ツルティム・ロドゥ師が言われたことに、相当するのではないかと思います。

 

ケンポお茶を立てつつ、飲みつつ、瞑想してもいいのです。しかし、仏教にあるような高度な瞑想をしようとするなら、お茶やお湯をどう扱おうなどと考えているわけにはいきません。

 

蓑輪 念と止観ですが、少し視点を変え、それを気づいている働きの中には、いわゆる言語の機能が関わってくるのかという視点から、もう一度ご説明いただけますか?

 

ケンポそれは2通りあります。まず、この花に心を集中させている時、雑念や思考が、全く生じずにいるという形のものがあります。もう1つは、自分の心をみつめていて、怒りの思いが生じた時、「あ、今、怒りの心が生じたな」と捉える形のものがあります。ですから、言語機能が関わるもの・関わらないもの、という2つがあるのです。

 

蓑輪それは、心の働きを静める「止」の瞑想とみるべきですか?それとも「観」の瞑想とみるべきですか?

 

ケンポ 両方とも「止」の範疇に含まれます。

 

蓑輪今、念と智は、どのような内容を示しているか、質問させていただきましたが、智はサンスクリット語でプラジュニャーという原語があります。皆さまが、よくご存じの言葉として、般若と訳されるものです。その般若と訳されている心の働きが、どういうものであるのかお聞きしました。

それでは、次の質問に移りたいと思います。

キリスト教世界においては、日常世界のなかで勤勉に務めることが、全知全能の神への禁欲であると位置づけられており、それが日常の倫理の中に入っていったと言われます。つまりキリスト教がもとになって、といってもプロテスタントが中心だと思いますが、日常の実践的倫理体系のようなものができあがりました。

それに対し、仏教の場合は、瞑想にしても、戒律を守ることにしても、どちらかというと禁欲的な傾向がずっと続いてきました。それが現実世界において日常に実践される倫理とどう直結するのか、という点を学生から質問されたこともあります。瞑想修行の点だけを考えますと、どうしても日常から離れたものになっていく向きがあります。

我々のような一般人にとって、日常の中で実践される倫理は、チベット密教ではどのように考えられているのでしょうか?

 

ケンポ 仏教の修行者という観点から申し上げますと、出家者もいますし、在家の方々もいます。在家の方々は、仕事をし、俗事に関わり、そして瞑想修行を行う。お釈迦様の最初の4人の弟子のうち、2人は出家者であり、2人は在家でした。このようにお釈迦様の時代から、出家と在家の2つの道があったのです。しかし、出家の道であれ、在家の道であれ、仏教徒ならば、善を為し、不善の行為を断つという点においては同じであると、通常いわれています。

まず、罪となる不善の行為とは、何でしょうか? それは、人や人以外の生き物の体や心を傷つける、身体的行為・言葉・考えによる活動を指します。では一方の、善とは何でしょうか? 人や人以外の生き物の身体や心に、自らの心を用い、身体を用い、言葉を用いて、利益をなすことをいいます。

他の生き物に害をなさず、利益をもたらすことができるなら、自らの欲求を追い求めてもいいのです。金を、車を、家屋を得たいと願ってもいいのです。すべての富を捨て去れなどとは言われません。

蓑輪キリスト教の枠組みと、仏教の持っている枠組みでは、違うところがあるように思うのですが、少しキリスト教的な感覚で仏教を理解することができるかという観点で、今の質問をさせていただきました。他者に危害を加えないという点が、仏教の日常生活での最初の大切な実践、徳目ということですね。

以上をもちまして、第一部は終了とし、休憩の後、第二部に移りたいと思います。