現代チベット仏教を知る

2803
2017-12-11
作者:ケンポ・ツルティム・ロドゥ
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2017年1月22日

東本願寺

しんらん交流会館大谷ホール

 

皆さん、こんにちは。本日は、たくさんの方々にお集まりいただき、仏教についてお話する機会を持てたことを嬉しく思います。ここでは、チベット仏教の意味、勉強の仕方、修行の仕方などを紹介したいと思います。

一般に、仏教には上座部仏教と大乗仏教がありますが、チベットの仏教は、大乗仏教にあたります。この点から言うと日本の仏教と同じですね。またチベットの仏教には顕教と密教の2 つがあります。日本仏教にも、顕教と密教があるそうですが、この点も似ています。しかし少々違っている点もあります。顕教に関しては特に違いはありませんが、密教に関して少し違いがあります。チベットには「外の密教」と「内の密教」という2つがありますが、日本の密教は、このうちの「外の密教」にあたります。「外の密教」は、中国仏教では「唐密」と呼ばれています。なぜなら、唐代に訳された密教だからです。日本には中国から密教が伝わりました。この外の密教は、中国、チベット、日本ともに似通っています。典籍も同じです。外の密教については、あまり違いがありません。

では、違いは何かといえば、チベットには「内の密教」があります。現在、「内の密教」は世界中でもチベットにしか残っていません。以前はインドに密教の教えがあり、サンスクリット語の経典が多く存在していました。それらサンスクリット語の多くの経典がインドからチベットにもたらされたのです。サンスクリット語の経典は、現在ではチベット語、英語、中国語など新しい言葉に翻訳されています。そのなかでも、ゾクチェン、マハームドラー、カーラチャクラの教えは「内の密教」にあたります。以上が、チベット仏教の密教に関する説明です。

また、チベット仏教には、仏説部(経部)と論疏部(論部)があります。仏説部とは、仏の言葉そのものです。論疏部とは、仏が説かれたものではありません。仏の入滅後、後世になって学者たちが記したものです。チベット仏教では、仏説部と論疏部に分類されます。しかし、中国仏教では、一括りに大蔵経と称しています。

勉強を行う時は、チベットでは論疏部を中心に据えます。論疏部を学んだ後に仏説部を勉強するのです。なぜなら、論疏部とは、仏説部に対する解説だからです。論疏部とは、家の鍵のようなものです。ですが、中国では最初から仏説部を勉強します。おそらく日本も同じでしょう。日蓮宗などは『法華経』を学び、教えの中心にしていますね。最初に論疏部をよく学んでから仏説部を学ぶというのは、インドのナーランダー僧院のやり方です。チベット仏教では、まず論疏部を勉強し、後に仏説部と合わせながら、「このように論疏部で説明されていることがらは、仏説部で、このように説かれている」というように学びます。

チベット仏教では、学ぶに際してとても大切なことが3つあります。それは聞思修です。現在、世界中どこを見わたしても、寺などでさほど聞思修は行われていません。アジアなどには立派な寺がたくさんあります。ても比丘は住んでいないのです。もし、いたとしても、さほど学んでいません。さらに、僧侶ではない一般の人や女性が住んでいることもあります。こうした人々が寺にあって仏教を学び、瞑想するケースは少ないようです。仏教徒が聞思修せずに何をするのかといえば、寺を立派にし、仏塔を建て、仏像を建立したりしています。大きな仏像を造れば、功徳はあります。しかし、それら仏像は法を説いてはくれません。

また寺ではたくさんの法要が行われています。それも驚くべきほど盛大にです。しかし、それらを見ると商売のための場合が多いようです。世尊の教えと、現在の実践されていることには食い違いがでているようです。寺の中で師僧や僧侶たちは法要を行うばかりで、学ぶ機会というものが減っています。寺の中で仏教が学ばれ、実践されることがないならば、一般の人々の中においては言うまでもありません。まず、寺の中で、仏教がよく学ばれることが必要です。そうすれば、在家の人々にもそうした心構えが伝わっていくでしょう。とても残念な現状です。

仏教には驚くべき広大な智慧があります。仏教は、信仰の部分だけでなく、分析し研究する智慧の側面を重要視します。しかし、智慧があってもそれを単に文字として、仏説部と論疏部として置いておくだけで、学ぼうとしないのではいけません。皆、仏教を学ぶことを考えるべきなのです。私たちが本当に仏教を学ぼうとするならば、どのように学び、どのように実践するかについて、考えなければなりません。そしてよく学んでいけば、それぞれ自分の能力にふさわしい教えを仏教のうちに見つけられるはずです。いってみれば、仏教とはスーパーマーケットのようなものです。その中には、高価なものも、安価なものも、色々あるのです。仏教もこれと同じで、甚深なものも、そうでないものもあります。

仏教は、信仰だけではありません。現在の科学とも一致します。例えば、科学的に分析して新しく発見されたことに関して、仏教も同意しています。「これは違う」と反論することはありません。もし、仏の説かれたことの中に、物質のあり方と異なったものがあったならば、仏の言葉だからといって、それにしがみつく必要はありません。仏の言葉の中にも、現実とそぐわないことが、たくさんあります。これを仏教では未了義と言います。未了義は何かというと、2,500 年前に釈尊が法を説かれた際、当時の人々が理解できないため、方便を使って説かれた教えのことです。この未了義の教えによって、徐々に学んだ後に、ものごとの真なるあり方を理解することができるのです。仏教に説かれる真実は、21 世紀の科学を学ぶ人々でも、理解することは難しくありません。仏教の説かれる教えの中心は了義です。了義とは本当の教えのことです。例えば、白い花があれば、はっきり白であるというのが了義です。このように、私たちは仏の言葉を分けて考えることが必要です。

仏教の教えは、都市部に住む人、苦しんでいる人々に役に立つ教えです。日本もそうですが、物質面を見れば、我々の生活は大いに発展を遂げました。その一方で、心の苦しみは大きく、幸せは小さくなっています。心の幸せ、心を平安にする方法が、仏教の中では多く説かれています。仏教は、21 世紀の現在においても非常に重要なのです。「仏教は来世のことだけに重きを置いて、他は省みていない」という人がいますが、そうではありません。仏教は、来世のことばかりを考えるのではありません。しかし、仏教が今生のことばかりを考えているのかといえば、それも違います。仏教が今生でも来世でもなく、何を目的としているのかと言うと、智慧と慈悲を育てることを考えているのです。

本当に仏教を学び実践するなら、たとえ1ヶ月学んだとしても、1ヶ月後「ああ、成果がでた」と実感することができます。残念なことは、仏教の中にはたくさんの方便がありますが、あっても私たちが勉強できませんし、人に教えることもできません。ですので、先に述べた聞思修のうちの聞、すなわち勉強し、耳で聞くことが必要です。耳で聞く時には、それに精通している人、教えることができる人に、頼ることが重要です。昔、日本でも密教などの仏教の教えが広がった時は、多くの僧侶たちが大変な苦労をして法を広めたのです。現在、そのような指導者がいれば、仏教は容易に広まるでしょう。現在は、空海のような指導者を望むことは難しいです。しかし、若い人々が、男性であろうと女性であろうと、仏教をよく学び実践すれば、少数であろうとも仏教を広げることができます。実践する人がいればできるのです。しかし、現在の私たちは物質面ばかりを考えています。

経済は重要です。不要だとは言いません。しかし、経済だけではダメだということを知らなければなりません。経済だけを考え、他を全く省みなければ、世界は悪くなるばかりです。経済だけを考え、経済発展だけを望むと、環境は益々悪化していきます。経済のために、争いも起こります。そして争いから多くの武器が生み出されます。武器を作るためには、たくさんのお金がかかります。そのようにして、最終的に心の中に幸せもなく、破壊された環境の中で生きなければならなくなります。ですので、経済は大切ですが、それだけではなく、他にも必要なものがあるという思いを皆が持つ必要があります。仏教には心の面で多くの人々に利益があります。来世だけではなく、今生で心がよくなるのです。しかし、現在の状況をみますと、仏教を勉強する人はなく、寺に僧侶や師僧はなく、仏法を勉強したとしても十分に学ばないならば、〔利益が〕あっても分かりません。ですので、まずは分かる必要があります。聞思修のうち、聞がなければ分からないのです。

今日集まられた人達は、日本の方であろうと中国の方であろうと、仏教徒であろうかと思います。仏教徒であるならば、慎重に学ばなければなりません。仏教徒であるかないか、仏法を実践するかしないかは、その人の自由です。しかし、仏法を実践するなら、必ずまずしっかりと学ぶ必要があります。寺の中で僧侶がよく学んで実践すること、そして一般の人々が彼らを支えることも重要です。日本では7 万5 千の寺があると聞きます。これは非常に多い数です。もし、たくさんの寺の中に、学問が少しずつ存在すれば、皆がよく仏教を実践することができます。しかし、学ぶことがなければ、寺はただの建物です。建物は土と石です。ですので、聞思修のうち、聞ということが非常に重要です。今日ここに集まった全ての人が、「私は仏教の教えについて何を聞けるだろうか」「どこにいって、どのようにすれば仏教の教えを聞くことができるだろうか」と考える必要があります。

聞を行う場合、チベットでは、例えば中観のようなインドの経典などを学ぶならば、教えを授ける者がしかるべき口伝を保持している必要があります。口伝、灌頂、解説のすべてを保持していることが肝心です。教えの伝承とは、師から弟子へ、弟子から弟子へと伝えられ、現在に至るまで続いているべきものです。灌頂には、灌頂の伝承があります。また仏教のうち、経典などを学ぶならば解説の伝承が必要です。例えば、中観なら、祖師のナーガルジュナから現在まで解説の伝承が伝わっています。口伝にも、例えば中観でしたら、ナーガルジュナから途絶えることなく現代にいたるまでの口伝の継承があります。灌頂の伝承がなければ、師は灌頂を授けることはできません。中観を解説するならば、解説の伝承を受け継いでいなければ解説することはできません。

ですので、伝承は非常に大切です。チベット仏教では、現在まで伝承が生きています。師から弟子、弟子から弟子へと伝わってきた口伝があります。例えば、「『般若心経』の教えなら、私は誰から教わった、その師も誰々から教わった」という風に、世尊まで途切れず記されています。そうした師たちの多くは、伝承の系譜を記した分厚い本を持っています。以前ならば、中国と日本の仏教にもあったと思われます。しかし、現在ではおそらくないでしょう。全くないのかどうかは判りませんが、私は聞いたことがありません。

そのような伝承が必要な理由は、仏教の言葉について、伝統的な解説を拠り所にしなければ、自分勝手に解説し、間違いを犯してしまうからです。チベットでは、百数冊の仏説部があります。それら全ての口伝が現在まで伝えられています。論疏部は、二百数冊あります。これに関しては、現在も伝承が残っているものもありますが、失われたものもあります。ラマたちの全集、例えばツォンカパの全集などの口伝は、ツォンカパから現在まで失われずに存在します。伝承をチベットで重要視する理由は、ある用語を解説する時、以前の解説をみなければ、その意味が分らないからです。

例えば「光明」という言葉があります。世尊は法輪を三度転じられましたが、その中でも第二法輪の中で光明について度々説かれました。しかし、光明は第三法輪の中にも多くみられます。これらの言葉は同じです。しかし、その意味は完全に異なっています。これに関して伝承がなければ、それぞれが個人的に解説することはできません。密教はこれ以上に複雑で、1つの言葉に対して、4 つの意味もあり得ます。それらを伝承なくして自分で解説しようとすることは非常に困難です。これらがチベットにおいて伝承系譜が重んじられる理由です。

次は2つ目の思です。仏教の教えは甚深であり、一度耳にしただけで理解することは難しいです。ですので、何度も思惟して理解する必要があります。そのため、チベット仏教では問答を行います。問答に一番優れているのは、チベットのゲルク派ですが、ゲルク派以外の寺でも問答がおこなわれます。チベットでは、問答すればするほど、自身が理解していないことを理解できるようになります。また自分が間違っていたとしても、問答をしなければ自分が間違っていたかどうかが判りません。問答を通して自分の間違いが分かるのです。ですので、問答も非常に重要です。問答の際、必ず手を打ち鳴らす必要があるわけではありません。大学では、普通に議論がおこなわれていますね。そのような形で問答を行うのでもよいです。仏教を勉強する若い人達が、議論を交わすことが非常に重要なのです。

3つ目は修です。聞思修の中で一番重要なのが修です。修をよくおこなえば、心の中の苦しみをすぐに取り除くことができます。現在は、世界中どこでも同じような状況です。都市部に住む人々は、心に強い苦しみを抱いています。現在の生活水準は高いので、誰もがあくせく働いてその高い生活水準に達しなければならなくなります。しかし人生は短いのです。すると、「短い人生でそんな苦労をして何になるのか」「こんな人生に意味などあるのか」と思う人も増えてくるのです。多くの人が生活のために苦労した結果、人生の目的も見失って心が空っぽになってしまうのです。いってみれば、空気の抜けた、車のタイヤのようになってしまうのです。物質に恵まれていても、それによって心を満たされるわけではありません。日本においては、年間3万人ほどが自殺すると聞きます。うち経済的問題から自殺する人は6 ~ 7,000 人位です。つまり70%の人達は、心の問題から自殺しているのです。心に苦しみが生じ、それを解決できずに自殺してしまうのです。これは日本に限った問題ではありません。世界中で同じようなことがみられます。ですから、心の中身が問題になってくるのです。

私たちは耳で心地のよい音を聴き、目で綺麗なものを見て、舌で美味しいものを味わっていますよね。これと同じものが心にも必要なのです。心に苦しみが満ちていると、心地のよい音を聴いても、心地よくありませんし、綺麗なものを見ても綺麗に見えません。目で色を見て、耳で音を聞いて、心も幸せならば「ああ、いいな」と思えるのです。それがなければ、目で素晴らしいものを見て、耳でいい音を聴いても何にもなりません。世界には、自殺で有名な場所が10 カ所あります。そのうちのほとんどを私は訪れました。それらの場所は素晴らしく綺麗な場所でした。1つは、富士の麓です。素晴らしい場所です。しかし、心に苦しみがあると、土地がよくても意味がありません。つまり、心にも必要なものがあるのです。しかし、何が必要か私たちは分っていません。ともかく、心を向上させることが必要です。そのためには、心を訓練することが必要です。そして、心を訓練するために修行を行うのです。 

心で本当に修すれば、驚くべき向上がみられます。運動などをして、身体を鍛える人がいますよね。私たちが心の訓練を行うのも、これと同じようなものです。心を訓練することが必要なのです。そして、だれもが自分の心の訓練を行う必要があり、そのすべを周囲の人々にも伝えていかなければなりません。ここに来られている皆さんには、たくさんの友人がおられると思います。その中に、経済的問題から苦しんでいる人は少ないと思います。もしくは皆無かもしれません。しかし、心の問題から苦しみを抱いている人は、たくさんいるはずです。そうした人々をどのすればサポートできるでしょうか。

例えば両親や友人たちを助けたいと思うけど、そのためのすべを知らなければ助けることもできません。さらに、自分自身も助けていかなければなりません。その上で他の人を助ける必要があるのです。ここに集まられた人々が少しずつ学んでいけば、自分の周囲の人を助けることができます。皆さんには、その力があるのです。そのための優れた方法が仏教の中にあります。私たちは仏教徒と名乗りながら、その方法を分っていないのです。それではいけません。ですので、皆さんが少しずつ修行を行っていくことが非常に重要なのです。

時間となりましたので、質疑応答に入りたいと思います。

 

質疑応答

 

― ラルン仏学院の食事は、なぜ精進料理なのですか?

 

ケンポ―現在、仏学院の在籍者の70%が、菜食主義をとっています。仏学院の法要などで出てくるご飯は全て精進料理です。2,000 年頃前までは、そのようではありませんでしたが、その後、菜食主義に変わったのです。その主な理由は、当時、しばしば法要が行われていたのですが、その出席人数もかなりのものとなりました。法要に出される食事に、年間、どの程度の量の肉が必要か計算してみたところ、700 頭のヤクが必要なことが分りました。法要のためにそれほど大量の動物を殺生してはいけないと考え、仏学院でみなに配る食事には、肉を使わないことにしたのです。しかし、個人が食べたいなら禁じてはいません。それは個人の自由なのですが、原則としては菜食主義を推奨しています。現在では、70% ほどが菜食主義です。

肉を食べなくても、身体的に問題はありません。昔、チベットでは、肉を食べる人が多くいました。大乗仏教の中には、慈悲の教えに基づいて、肉を食べない方がよいという教えはあります。

 

― 「聞思修」の「聞」について、もう少し詳しく教えてください。

 

ケンポ―学校で、生徒が先生の教えを聞かないといけないのと同じことです。

 

― 世俗の教えを聞くことは、聞思修の聞にあたりますか?

 

ケンポ― 一般に聞とは、広い意味でいうと学校での勉強も含まれます。ですが、本日話させていただいたのは、仏教の教えを聞くという意味での聞です。

 

― 『地蔵経』はいつ唱えればいいですか? 家庭で唱えてもいいですか?

 

ケンポ『地蔵経』は家庭で唱えていただいて結構です。いつ唱えていただいても結構ですが、15 日や30 日に唱えていただくと功徳が大きいと言われます。意味をよく理解して、心で唱えたならば非常によいです。『地蔵経』以外にも『般若心経』などを唱えるとよいでしょう。『懺悔経』を唱えるのも非常によいです。『普賢経願賛』もまたよいです。

 

― 出離心と菩提心を考えることが重要だといつもおっしゃいますが、菩提心を起こすのは難しいです。

 

ケンポ 菩提心を修習するならば、まず慈悲心を考えることが必要です。まず慈悲を長らく考えた後に、菩提心を修習すれば容易となります。慈悲心をよく養っておかなければ、直接菩提心を修習することは難しいでしょう。

 

― 私は、毎月1日と15 日の3時から5時の間、瞑想しますが、目を閉じると色々なものが見えます。どうすればいいですか?

 

ケンポ目を閉じると、何も見えないはずです。それは目が見ているのではなく、心が色々なことを考えているのです。そのように様々考えないようにするためには、瞑想を行う必要があります。そのように瞑想を行えば、『地蔵経』を唱える時でも心が放逸にならなくなるでしょう。

 

― 修行する時間は、午前3時から5時で大丈夫でしょうか?

 

ケンポ少し早すぎませんかね。よく目が覚めてから行ってください。もともと何時に寝るかによります。午前1時に寝るなら、6時に起きて行うのがいいでしょう。唱える経は、何を唱えても構いません。

 

(通訳 井内真帆)