8月のラルンガルです。ここで過ごして40年の月日が流れました。感謝溢れる気持ちで感無量です。ここラルンガルは、地球上のどこよりも厚恩を授かった地であり、私にとって、この世界で最も慕わしい場所です。
今日(チベット暦の11月15日)は、私達の導師・法王ジグメ・プンツォク・リンポチェ円寂二十周年記念日です。
『華厳経』に曰く、
若能遠離惡知識 則得親近善知識
悪しき師から離れることができれば、善き師にまみえることができます。
若得親近善知識 則能修集廣大善
もし善き師にまみえることができれば、無量で大いなる善業の糧を積むことができます。
これは私たちの地球です。『華厳経』に説かれる華厳世界の一微塵でもあります。自身の体験が、どれほど凄いことかと思い込まないでください。全てはかくの如く、ちっぽけで取るに足らないものなのです。
世界で一番高い山の頂に立ったとしても、地球が丸いということは判りません。山の頂からは、周りの限られた空間しか見ることができないからです。同様に、いくら世俗の学問の山に登っても、見えるのはせいぜいが、この先の数十年の範囲です。それを超え、過去・未来までを見渡すことはできません。そのように、私達の見解は充分では無いのです。
苦しみは煩悩より生じ、煩悩は執着より生じます。執着は愚かさ・無明より生じます。無明は全ての苦の源であり、智慧に依ってのみ、滅することができます。ですから、仏陀の智慧が必要なのです。
私達の未来は、心の深遠な謎を解き明かすことが出来るかどうかに関わっています。すべての幸福と苦しみは、智慧と無明の二文字からやってきます。
人類の歴史において、最も偉大な発見と功績は、芸術や科学ではありません。自分自身の無知と不条理を正しく認識し、それらの問題の原因を探り、解決方法を発見したことです。なぜなら、そのような智慧を得ることによってのみ、究極的な自由と幸福が得られるからです。
どんな時でも、どんな環境でも、私たちが幸せな生活を送れるかどうかは、すべては自らの心次第です。外的環境によるものではありません。それなのに、なぜ私たちは自分の心を訓練せず、周りの環境を変えようと必死になるのでしょうか?
大乗仏教徒は、霊のようなものを拝んだりはせず、完全に悟られた方を敬います。又、超自然的な力を得ようとするのではなく智慧と慈悲を得ようとします。そして、天界に行くことを願わず、他者を利することを願います。輪廻の世界を捨て去るのではなく、それを超越しようとするのです。
生活をより良いものに、快適にするために、多くの学問が生まれてきました。特に西洋社会において、物質面の進化、科学の進化には著しいものがあります。しかし、心の問題は増える一方です。もし、心に何か問題を抱えているなら、物質面が満たされていても、幸福を味わうことはできません。
『般若心経』は何を説くものでしょうか? 仏教では空性を説きます。では、空性が説かれる理由は何でしょうか? 人は身心に苦しみを抱えています。この苦しみを取り除くために、空性の教えが説かれたのです。特に、心の苦しみがどこから生じたのかというと、ものには実体がないにも関わらず、実体があると信じ込んでいるが故に苦みが生じるのです。
チベットでは、あらゆる幸せの中の最も優れた幸せは、心の幸せだと説かれます。そして、心に幸せが訪れるための根本的な条件が「自由」です。ここでの自由とは、心の自由のことを指します。外界において、私たちには様々な自由があります。それら全部が揃っても、内心の自由を得ることができなければ、幸せは得られないと仏教では説かれており、チベットでもそう言います。