2017年1月20日
大正大学
礼拝堂
野口圭也先生(以下、野口。敬称略) ― 四川省のラルン・ガル五明仏学院の副院長であられる、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師の初のご来日にあたり、東京大学の蓑輪顕量先生の呼びかけで、全国の仏教系大学の中から相集い、招聘委員会を設けました。関東地区におきましても、関東において仏教を学び研究している、ほとんどの大学から招聘委員が選ばれ、大正大学より、私もその一員として加わった次第です。
そして、本日、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師を本学にお迎えし、講演を頂戴できることは、まことに光栄に存じます。先ほど映像をご覧いただきましたように、ラルン・ガル五明仏学院は標高4,000 メートル、気温は氷点下20℃に達するという過酷な環境下で、5,000 人に及ぶ僧侶の方々が仏教を学び、修行し、研鑽に励んでいらっしゃいます。
先日、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師にお目にかかった際、 東京にちょうど寒波が襲来していましたので、「東京の気温はいかがでございますか?」と伺ったところ、「暖かくて大変に快適です」と仰っておられました。氷点下2℃まで下がりましたけれども、氷点下20℃に比べれば、まだずいぶん暖かいということのようでございます。
先ほどご覧いただいた映像の中で、ラルン・ガル五明仏学院では5,000 人に及ぶお坊さん方が、修行し、学ばれているという話がございました。私共、大正大学は、大学院まで含め、学生総数が5,000 人に満たない人数でございます。そのうち仏教学を専門としているものは、約1割の4 ~ 500 人あまりで、僧侶はさらに人数が少なく、3 ~ 400人位でしょうか。そのような人数で仏教学を学び、研究をしているわけでございます。
本日は、本学の礼拝堂を会場といたしまして、本尊様でいらっしゃる阿弥陀如来様の御前に、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師をお迎えする運びとなりました。
大正大学におきましては、日本の宗派で申しますと浄土宗、天台宗、真言宗豊山派、真言宗智山派、そして時宗のお坊さん方が、ここで学び、修行をつみ、研鑽をつんでおります。さきほどのラルン・ガル五明仏学院の紹介の中でも、顕教と密教、2つの教えを学び、修行しているという話がございましたけれども、本学におきましても、顕教と密教双方の教えを学び、研究をいたしております。大乗仏教は大きく分けて、顕教と密教の2つの流れがございます。
11 世紀のインドの学僧アドヴァヤヴァジュラという方が、大乗仏教を2つに分けて、1つは波羅蜜のやり方、波羅蜜の教え、パーラミターヤナ、もう1つは真言の教え、真言のやり方、マントラヤーナという2つの立場を著作の中で述べております。波羅蜜という修行の仕方を通じて、あるいは真言、マントラというやり方を通じて、悟りという大乗仏教の最終目的に到達することができる。
目標とするところは同じでありますが、大乗仏教には顕教と密教という2つの道筋があるのです。ラルン・ガル五明仏学院では2つの教えを学んでいるということでございましたが、本学も同じように顕教と密教の2つの教えを学び、研究をしております。日本の数ある仏教大学の中でも、顕教と密教の両方を研究し、学んでいるのは、私共、大正大学が唯一であるというふうに自負いたしております。
本日のお話のテーマは「チベットの『般若心経』」という題目でお願い致しました。ここに参加された皆さまは、仏教に関心を抱かれている方々なので、『般若心経』のこともご存じの方が多いかと存じます。
この中で、『般若心経』をお唱えしたことのある方、どのくらいいらっしゃるでしょうか? 挙手いただけますか? 結構いらっしゃいますね。では、『般若心経』を写経、書き写したことのある方は、どのくらいいらっしゃいますか? やはり結構おられますね。では、『般若心経』を全部暗記している方は、どの位いらっしゃいますか? これも随分いらっしゃいますね。
今日は、講演の始めにケンポ・ツルティム・ロドゥ師に、チベット語の『般若心経』をお唱えしていただく予定でございます。皆様方に資料としてお配りした、「チベットの『般若心経』」という小さな冊子がございます。これは、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師招聘委員会の事務局において作成をしたものですが、チベット語の発音と日本語と中国語の翻訳がそれぞれついているかと存じます。それと併せまして、日本語の『般若心経』、あるいはまた中国語、北京音の『般若心経』を記したものを、それぞれ日本人の方、中国人の方にお配りしております。
これは、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師の講演が終わりました最後に、先生への感謝の気持ちをこめて、また本礼拝堂の御本尊様である阿弥陀如来様への御法楽の気持ちをこめて、皆さま方とご一緒に『般若心経』をお唱えいたしたいと存じますので、日本語、中国語― 中国語の方は中国語の発音のCDを用意してございますので、そのCDに合わせる形で、皆さま方ご一緒に『般若心経』をお唱えできれば、大変意義ある会となることを確信しております。
『般若心経』という経典は、日本や中国においても、またチベットにおいても、非常に大切にされ、お唱えされている経典であります。しかしながら、日本や中国の『般若心経』とチベットの『般若心経』では大きな違いがございます。私ども日本、そしてまた中国でお唱えしている『般若心経』は、玄奘三蔵法師が翻訳されました『般若心経』―実際にお唱えする時には細かいところで小さな違いがございますが、玄奘三蔵の翻訳された『般若心経』をお唱えし、また書き写しているわけでございます。しかしながら、チベットで用いられている『般若心経』は、それよりも長いバージョン、大きな本と書いて大だい本ほんと読みますが、長いバージョンの『般若心経』がチベットでは使われていらっしゃるわけです。
日本と中国、そしてチベット、それぞれ『般若心経』を大切にしていながらも、また少し違いがあるということになります。チベットにはチベット大蔵経という仏教文献の集大成がございますけれども、『般若心経』は、2つの場所に、つまり秘密部(密教経典)と般若部(般若経典)に収められています。大蔵経のエディションが非常に多いというのも、特徴でございます。
つまり、『般若心経』という経典は、般若波羅蜜、般若=空の教えのエッセンスを説いた経典であると理解されているのですが、チベットにおいては、同時に密教経典でもあるという理解がなされているわけであります。実は日本でも同じように、この『般若心経』を密教経典として解釈した方がいらっしゃいます。真言宗を開かれました弘法大師空海は『般若心経』を密教経典として理解し、その注釈を記しました。その点では、日本の密教とチベット密教を中心とするチベットの仏教に、やはり通じるところがあるという風に感じられるわけです。また同時に、『般若心経』は仏教の教えの一番の中心である般若=空の教えを説いた経典であり、そのエッセンスが説かれている最も大切な経典に数えられているわけでございます。
今日のケンポ・ツルティム・ロドゥ師のお話は、文献的な言葉の解釈ではなく、『般若心経』がチベットでどのように信仰され、どのように用いられ、人々の中に受け入られているのか、それらのことについて、お話をいただく予定でございます。私どものように、普段から『般若心経』を用い、唱えている者たちにとりましても、大変に価値を持つ、意義の多いお話になることを確信しております。
前置きはこれくらいとし、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師をお迎えいたしまして、お話を頂戴いたしたいと存じます。皆様どうぞ、盛大な拍手をもってお迎えください。では先生お願い致します。(拍手)
ケンポ・ツルティム・ロドゥ師(以下、ケンポ。敬称略)― 今晩ここに集ってくださった方々に、ご挨拶申し上げます。『般若心経』についてお話できる機会を得られまして、とてもうれしく思っています。『般若心経』は、仏教でとても重要視されている経典です。インド、チベット、中国、すべての国で大切な経典とみなされており、日本においても同じであると聞いています。
最初に『般若心経』の口伝(ルン)お唱えしたいと思います。まず口伝とは何か、お話したいと思います。口伝というのは、お釈迦様がまず唱え、それを弟子が聞き、その弟子たちがまた次の弟子のために唱えるという流れが、一度も途切れなく続いていく伝授の流れです。お釈迦様がまず唱え、それをインドの偉大なる先生方が引き継がれ、それがチベットに伝わり、さらに師から弟子へと脈々と受け継いできたのです。口伝が途切れることなく伝わっていれば、そこには加持がこもっていると、チベット仏教では説きます。今日のように『般若心経』の内容を説明する際には、必ずこの口伝が必要になってきます。
また、『般若心経』の意味やそれぞれの語句の解説をする際には、インドからチベットへと伝わった解釈にそって解説する必要があり、自分の勝手な解釈で解説してはなりません。そんなことをしたら間違いが生じるからです。
では、まず皆さま方に、口伝をお唱えしたいと思います。
(チベット語の『般若心経』を唱える)
これが『般若心経』の口伝です。
では、これから『般若心経』の意味について、簡単にご説明したいと思います。釈尊は悟りをひらかれてから、三度に渡り、仏法を説かれました(三転法輪)。2回目に説かれた教え(二転法輪)は、空性についてでした。空性とは、すべての仏教徒が仏教の心髄とみなしている、とても大切な教えです。釈尊が空性の教えを説かれた時、あまたの言葉を費やして、長々と説いてくれることを好む者もいれば、それほど長い解説を求めない者もいました。また、ごく簡潔に解説してもらうことを望むものもいました。長々とした詳しい解説を好む者たちのために、釈尊は『十万頌般若経』を説かれました。『十万頌般若経』は、十万の頌によってできあがっています。
『十万頌般若経』ほど詳しい説明を求めない聴衆のために、中程度の詳しさで説かれた『二万頌般若経』や『八千頌般若経』があります。そして、非常に短い凝縮した形の教えを求める聴衆のために、『般若心経』を説かれたのです。現代に生きる人々は、便利で即効性があることを好みます。つまり『般若心経』は、私たち現代人にとって、ぴったりの経典であるわけです。
次に、チベット人が『般若心経』をどのように捉えているか、お話したいと思います。チベットであれば、ラマであろうと普通のお坊さんであろうと、日頃から『般若心経』をお唱えしています。1年に1度、チベット暦の12 月29 日にお寺で盛大に『般若心経』を唱える大法要があります。
その目的は、新年を迎えるにあたり、障害を取り除き、望まざるもの、悪しきもの、不吉なものを退けるためです。『般若心経』を唱えることによって、悪いものを退けるのです。『般若心経』を唱える際、終わりに短い「除障の経文」を唱えます。『般若心経』を唱え、それについて瞑想し、その意味を考えることで、災いや障害を退けることができると思われているので、このように『般若心経』を唱えるのです。さらに、常用日課経典の中にも『般若心経』が含まれています。
しかし、一番大切なのは唱えることでなく、瞑想することです。ツォンカパ大師の伝記の中にも、ツォンカパ大師が『般若心経』を唱えつつ、その意味について考え抜いて、空性の真義を悟り、ただならぬ体験を得たというエピソードがあります。日本でも『般若心経』を唱えることで、障害や悪いものを祓うという習慣があると聞きました。この点でチベットと日本は同じではありませんか?
『般若心経』は、顕教と密教のどちらに属するかというと、一般的に『般若心経』は顕教に分類されます。しかし、密教と関連付けて、密教に分類することもあるのです。とはいえ、『般若心経』の教えは非常に深遠なものですから、顕教・密教どちらに分類してもいいのです。チベットに翻訳されたインドの学者達の著した論書の中にも、『般若心経』を密教と関連付けているものがあります。
また、中国や日本に伝わり、唱え、写経されてきた『般若心経』と、チベットに伝わった『般若心経』は多少の違いがあるのです。中国に伝わった漢語訳の『般若心経』にも、色々なバージョンがあると聞きます。大多数の方が唱えている漢語訳の『般若心経』は、本日、皆さまのお手元にお配りしたものだと思います。また、日本の方々が唱えている『般若心経』も、中国のお寺で日々唱えられているものと同じと聞きました。漢語版とチベット語版を比較すると、一番肝心な内容の部分は同じです。しかし、チベット語版は漢語版より、少し長いのです。
とはいえ、漢語訳の『般若心経』にも色々なバージョンがあり、中にはチベット語訳と同じ長さのものもあります。しかし、中国のお寺で通常用いられている漢語訳の『般若心経』は、チベット語版とは違う短いバージョンの『般若心経』なのです。
漢語版には、チベット語版にある冒頭の部分と締め括りの部分が欠けています。しかし、一番大切な中心部分は同じです。チベット語の冒頭部分では、この『般若心経』が、いつ、どこで説かれたのか、この教えに耳を傾けたのはどのような聴衆なのか、そして、誰がこの教えを説かれたのか、何を説かれるのかという説明があります。この5つの説明は、チベットの経典全てにあるものです。しかし、冒頭のこの部分は、中国や日本の寺で唱えられている漢語版の『般若心経』にはありません。
さて、この『般若心経』は、釈尊自身の言葉から成り立っているわけではありません。釈尊の教えには、3種類のものがあると言われています。1つは釈尊自身自ら語られたもの。2つ目は、釈尊自身は語られていないが、釈尊の加持の力よって、他のものが語ったもの。しかし、他のものが語っていても、これもまた釈尊の教えとして、カンギュル(仏説部)の中に含まれています。3つ目は釈尊が涅槃に入られてから、弟子たちが釈尊との対話を思い起こして記録にとどめたもので、これもまた、たくさんの教えが残されています。これは釈尊の言葉そのものではないのですが、釈尊の教えであると認知され、釈尊ご自身もそれを認められています。これら3種類の中で、『般若心経』は2番目のタイプの教えに分類されます。
『般若心経』では、シャーリプトラが観音菩薩に質問を投げかけ、それに対して観音菩薩が答えるという形をとっていますが、そのどちらも釈尊の加持の力によってなされたものであるゆえに、釈尊の教えであると見なすことができるです。
また、シャーリプトラと観音菩薩の対話が終わった後、チベット語版の『般若心経』では、釈尊が禅定より出て、「まったくその通りである。あなたが説かれたことは正しい」と、言葉をかける箇所があります。『般若心経』の冒頭の箇所では、釈尊は禅定状態に入られています。この釈尊の瞑想の力という後ろ盾があって、シャーリプトラと観音菩薩の対話は成り立っているのです。そして、2人の対話が終わった後に、釈尊は禅定から出て、「まさにその通りである、善きかな、善きかな」と、述べられるのです。それを受けて、シャーリプトラや観音菩薩、その場に居合わせた人々、神々、阿修羅などが皆、釈尊のこの言葉に喜び、随喜し、さらにマントラが続くのです。ここの部分がチベット語版の『般若心経』にはあって、中国あるいは日本で通常用いられている『般若心経』にはない部分です。
このように、チベット語版の『般若心経』と漢語の『般若心経』は、多少の差異はあるのですが、一番大切な部分に違いはありません。長い短いの違いはあるけれども、どちらをお唱えしてもいいのです。以上、『般若心経』の背景と概要について、ごく簡単にご説明させていただきました。
続いて『般若心経』に何が説かれているのか、その教えの心髄について、ご説明したいと思います。『般若経』には『十万頌般若経』という長いバージョンがあり、それを凝縮する形でまとめたのが『八千頌般若経』です。それをさらに凝縮させたものが『金剛般若経』です。漢語の『金剛般若経』は、たったの五千文字で構成されています。それをさらに凝縮させたのが『般若心経』なのです。日本で使われている『般若心経』は、262 字からなっていると聞きます。そして、中国で使われているバージョンは260 字だそうです。中国と日本では2文字の違いがあるわけです。日本のバージョンのほうが2文字長いことになりますが、内容そのものに違いがあるわけではありません。
このように十万頌からなる教えも、凝縮すれば262 字になるわけです。それをさらに凝縮すると、漢語では16 字にまとめらます。この16 の文字は「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」です。つまり、十万の頌からなる教えも、凝縮して16 字にまとめることができる。そして私たちはこの16 字の意味するところを理解しないといけないのです。インドでも中国でもチベットでも日本でも、大乗仏教徒ならば、誰しも『般若心経』を唱えます。しかし、唱えてはいるけれど、それが何を意味するのか知っている人は、わずかしかいません。私たちは唱えるだけではなく、それが何を意味するか、知るべきなのです。
では、『般若心経』は何を説くものでしょうか? 仏教では空性を説きます。では、空性が説かれる理由は何でしょうか? 人は身心に苦しみを抱えています。この苦しみを取り除くために、空性の教えが説かれたのです。特に、心の苦しみがどこから生じたのかというと、ものには実体がないにも関わらず、実体があると信じ込んでいるが故に苦しみが生じるのです。
例えば、自分の親や家族が死んだ夢を見たなら、それを現実そのものと思い込んで、ひどく苦しむはずです。逆に、大金やよい地位を手に入れた夢を見れば楽しい気分になります。夢は夢にすぎず、本当ではないと私たち自身よく知っているにもかかわらず、夢の中でさまざまな出来事が起きたなら、てっきり現実と思い込んで、苦しんだり、有頂天になって喜んだりするわけです。夢の中で味わう喜怒哀楽の感情と、夢から醒めた現実世界で味わう喜怒哀楽の感情には、なんら違いはありません。ただ夢から醒めた後で、我に返り、「ああ、あれは真実のことではなかったのだな」と悟るわけです。しかし、夢から醒めることができなければ、いつまで経っても、それが偽りの世界であるとは分からない。さらに、その夢が100 年の長きに渡り続いたならば、夢というより、「人生」と呼ぶべきでしょう。逆に、100 年ではなく2時間しか続かないなら、夢と呼べるでしょう。ただこの2つは、時間の長さの違いでしかないのです。人生と夢、そのどちらが真実かなど、私たちには判断することはできないのです。
夢の中で、ひどい苦しみを味わっているとします。その苦しみを取り除くためには、どうすればいいでしょか? 何名かの方から、お答えをいただきたいと思います。
― 長い夢から目を醒ますことが大事だと思います。
すばらしいお答えです。あと2人ぐらいの方から、ご意見をいただきたいです。
― 夢で苦しみを味わっている時に、「こんなことはあり得るわけはない」と思えば、その苦しみを取り除くことができるはずです。
― 私たちは、我執に、この世のすべてのものに実体があるという思いに、捉えられています。そのために私たちは苦しみを味わっているのではないでしょうか。
3つとも、よいお答えでした。悪夢に入りこんで苦しい思いをするならば、一番よいのはその夢から醒めることです。しかし、いったん夢の中に入り込んでしまったら、その中でしか思考が回らず、目を醒まそうなどという思いすら、浮かばないはずです。例えば、夢の中で食べ物が手に入れられず困っていたなら、なんとか食べ物を得ようとあくせく走り回るばかりで、夢そのものから脱しようなどとは思いもしないはずです。
今日のテーマは、かなり深遠な事柄を扱っています。空性というのは、簡単に理解できるようテーマではありません。皆さんの頭の中も疑問でいっぱいだとおもいます。『般若心経』には、夢と人生は似たようなものであると述べられています。そこで、皆さん自身、本当に夢と人生が似ているのかどうか、自分自身で考えてみてください。それによって人生の真義が、真のありようが見えてくるはずです。もちろん今すぐ理解できるようなものではないでしょう。でも、すぐに理解できなくても、勉強していけば、徐々に理解でるはずです。
人それぞれ、人生の関心事は異なります。どれだけの富を築いたかを気にかける人もいれば、名声第一の人もいます。地位や権力が大切な人もいるでしょう。俗世に身を置くなら、こうしたものを求めるのも無理のないことです。しかし、それ以外にも必要不可欠なものがあるのです。それは智慧です。深い智慧があれば、私たちは夢から醒めることができるのです。私たちは経済的には進歩しており、生活もどんどん便利になっている。にもかかわらず、それによって幸福を体感できるかというと、そのようなことは全くなく、心の苦しみは増すばかりです。この心の中の苦しみを取り除くために、人々は様々な手段を試みています。最近、欧米では大勢の人々が、仏教由来の瞑想をするようになっています。とはいえ、さほど深遠な瞑想を行っているわけではありませんが。
心理学の分野でも、心の苦しみを取り除くための方法を色々と開発しています。心の苦しみは、一時的であれば、取り除く手段がないわけではありませんが、それでも根本から取り除くことはできないのです。これまで人は皆、金銭的に豊かになればなるほど、幸せになれると信じてきました。もちろん金銭的に恵まれていることは大切なことです。お金がなければ生活も成り立ちません。お金を不要なものとは言いません。しかし、お金さえあれば全てが解決するという考え方は間違いです。人が幸せに生きるためには、お金も必要ですが、それ以外に必要なものがあるのです。私達にとって必要なもので、一番大切なものは智慧です。智慧があれば人生を遠望できます。逆に智慧がなければ、視野の狭い人生を送ることになってしまいます。人生を遠くから見通すことができなければ、人生の本当の姿を知ることができなくなります。
ですから、『般若心経』をただ単に唱えるだけのものと思うのは、大きな間違いです。もちろん、『般若心経』を唱えるのはよいことです。それなりに、ご利益もあるでしょう。しかし、一番大切なのは、『般若心経』を勉強することです。勉強した上で、それを修行する。『般若心経』を学んで修行するにあたり、出家して僧尼になる必要はありません。在家のごく普通の人々でも、『般若心経』を学び、修行できるのです。一般の人々は、日々、仕事に行かなければならず、忙しい日常を送っています。そのため、多くのストレスを抱え込んでいます。しかし、そうした忙しい日常の合間をぬって、短い時間でもいいですから、日々、『般若心経』について学び、修行をしてみてください。
今日は時間がありませんので、『般若心経』の一番要の部分がどういうものなのか、詳しい説明は致しません。今日の話の要は、「夢の世界と現実の人生は似たようなものである」ということになります。本日、お越しになられた皆様は、是非、そのことを考えてみてください。単に聞き流すだけでは、何も役にたちません。今日の講演後、自らに問いかけてみるのです。今の人生と夢の間に違いはあるかどうか。そして色々と考えを巡らしてみる。そうすれば、理解も深まると思います。それが私の願いです。
では、あと30 分ほどありますので、皆さま方からご質問をお受けしたいと思います。
質疑応答
― 『般若心経』の一番大切な部分は、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」であると仰られましたが、あくまで文脈構造上でいうと、「それゆえ菩薩たちは得ることがない故に、般若波羅蜜多を拠り所として……涅槃に住するのである」という部分が、中心なのではないかと思います。これで正しいでしょうか?
何故なら、般若波羅蜜多という甚深なる行を実践することを望むものは、次のように見なさいといって「色即是空 空即是色」「色不異空空不異色」等を述べ、さらに「受想行識も空である、それゆえに空性においては色がなく、受は無く、想は無く……法は無い」と続き、さらに話を発展させて、最後に「それゆえ菩薩たちは得ることがない故に、般若波羅蜜多を拠り所として……涅槃に住するのである」と続いていくので、これが結論となるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
ケンポ― 『般若心経』中の語句、全てが重要です。しかし、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」の16 文字が重要であると説くのには、理由があります。
何故なら、『般若心経』は空性について説くお経だからです。そして、この16 文字の中で、空性について、最も明瞭に解説されているからです。この16 文字中に、空性についての解説が全て含まれているのです。その後、「眼は無く、耳は無く、鼻は無く、舌は無く……」など「××は無い」「××は無い」と続きますが、これはこの16 文字を判り易く説明しているのです。
この16 文字とは、「色は空であり、空性は色である。色より空性は他になく、また空性以外に色は他にない」(「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」)です。さらに、受想行識も空であると記されていますが、これは「受(感覚作用)も空であり、空性は受である。受より空性は他になく、また空性以外に受は他にない」と理解すべきであり、想行識も同様です。だからこそ、この16 文字が『般若心経』の一番要の部分なのです。もちろん、あなたの指摘された部分も大切な箇所ではあります。あなたが、『般若心経』をよくご存じであることも分りました。
― 『般若心経』を瞑想し、行じることも大切だとお話くださいましたが、『般若心経』を瞑想するというのは、空性を瞑想するということでしょうか? 生きていくこの一瞬、一瞬をすべて実体がなく、これは空である、という冷めた意識をもって生きることが『般若心経』の瞑想であると考えていいのでしょうか? あるいは特別な修行法があるのでしょうか?
ケンポ― 素晴らしいご質問です。まずは『般若心経』をよく勉強して、その真義をよく学ばなくてはなりません。理解したところで、それが正しいのか、そうではないのか、さらに分析し尽くさなければなりません。
分析し尽くし、まさに人生とは夢のようなものだと悟り、そこに揺るぎない確信が伴った時、それを「見解」と呼ぶのです。見解を得たなら、それに基づいて瞑想を行います。瞑想すると、極めて深い空性の真義が心に顕れます。この深い空性の真義を悟ったならば、心の中の煩悩や苦しみが次第に減っていきます。そのような境地に至り、世の人々に目をやると、この世が夢のようで実体がないことも知らず、あくせく苦労を重ね、ある人は身体面で、ある人は心の面で苦しみを抱えている。そうした人々を目にした時、なんて可哀そうなのだと思うわけです。そこで、慈悲心というものが起きるのです。そのようにして、慈悲心が起きた時、他者に救いの手を差し伸べることができるようになります。そうすれば、人生を意味あるものにすることができるようになるのです。
― 『般若心経』の中に、五蘊は空であると書いてありますが、私たちの意識も五蘊に属しているわけです。その意識をどう使って空性を悟ることができるのでしょうか? また日常生活のなかで、どのように菩提心を修行すればよいのでしょうか?
ケンポ― 空性を悟るためには、多くの因と縁が揃わなくてはなりません。それらの因と縁のなかで、一番大切なものが菩提心です。何故かというと、菩提心があれば、一切衆生をなんとしてでも救いたいという気持ちが起きるからです。では一体どうやって衆生を救うことができるでしょうか? 今の自分は、衆生に救いの手を差し伸べようにも、とてもそうするだけの力はない。それのことは自分でも判るわけです。では、どうすればよいのか? そのためにはまず自分が仏の境地に達さないといけない。では、どうすれば仏の境地に至ることができるのか? そのためには、空性を悟らなければならない。このように理解し、空性を悟るべく精進するわけです。菩提心は空性を悟るための一番大切な因なのです。
― 仏教の修行で、一番肝心なのは空性であることは分かりますが、仏教の初心者にとって、空性は誤解しやすいものだと思うのです。空性とは無、つまり何もないことを意味すると捉えてしまい、自分では何もしなくていいと思いこみ、さらに邪見を、間違った見解を抱く可能性もあります。そうなりがちな仏教の初心者に対して何かアドバイスはありますか?
ケンポ― 空性について勉強する時には、空性と共に縁起をも理解すべきなのです。一般的な解釈では「善を行えば幸福が、罪なる行為を行えば不幸が生じる」ことを縁起の理と呼んでいます。縁起の究極的な意味は、空性であると言われますが、ただ口先で言っているだけでは意味ありません。それを悟る必要があるのです。例えば夢を見ている時、それは夢であり、真実ではないと理解したなら、夢の中で味わっている苦しみは無くなるでしょう。でも、夢が偽りの世界であると理解できなければ、夢にあらわれる様々な不幸を本物と思い込んで、苦しむことになります。
ですから、単に空性、空性と口で唱えているだけでは意味はないのです。大切なのは空性の真の意味を悟ることなのです。夢は本物の世界ではないけれども、夢を見ている時に、それが現実そのものだと思い込んでいるなら、現実の世界と同様に、あなた方に様々な苦しみをもたらします。そのようなわけで、私たちは、縁起と空性の両方が相並び立つ形で、理解していく必要があるのです。この2つを常に関連付けて理解することができないならば、あなたが言われたように、空性を間違って理解する可能性があります。
空性というのは、教育レベルに例えれば、大学で取り上げるような、極めて深遠かつ高度な教えです。大学院生や大学生が学ぶような学問を小学生が学ぼうとしても、理解できるものではありません。空性について勉強する時は、易しいレベルから始めて、次第に高度なレベルに高めていくべきであり、最初から空性そのものをよく理解しようとしても、あなたが述べられたように、間違った空性の見解を持ってしまう可能性があります。しかし、きちんと順を追って学び、常に縁起と空性の見解を関連付けて考えることができれば、誤った見解に陥ることはないでしょう。総じて、空性の見解に対してはとても慎重であるべきです。
野口― まだまだご質問もあろうかと存じます。大変鋭いハイレベルの質問が先ほどから続いておりますけれども、そろそろ終わりの時間も近づいてまいりました。質問は、以上で打ち切りにさせていただきます。皆様方ありがとうございました。
それでは初めに申しましたように、最後に日本語、また中国語の『般若心経』をお唱えいたしまして、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師の講義に感謝いたし、また大正大学礼拝堂の本尊様、阿弥陀如来様に皆様と共々に御法楽を捧げたいと存じます。
(日本語と中国語の『般若心経』が唱えられる)
野口― ありがとうございました。チベット語、日本語、中国語での『般若心経』、今日は皆様方と一緒に唱和することができまして、大変得難い経験でもございました。
ケンポ・ツルティム・ロドゥ師におかれましては、大変貴重なお話を長時間賜りまして、誠にありがとうございます。また、会場の皆様方からも先生からの質問に対するお答え、及び法話後の質問の中で、様々な内容の深い質問をいただきました。本日、お集まりいただきました皆様方に、大いに得るところがあったのではないかと思っております。どうぞ、本日の貴重な経験をこれからの生活の中で活かしていただけますよう、心より念じ、本日の講演会を終了いたしたいと思います。
ケンポ・ツルティム・ロドゥ師、本当に長時間にわたり、ご法話を頂戴いただきまして、心より御礼申し上げます。皆様方、ケンポ・ツルティム・ロドゥ師に対しまして、盛大な拍手を頂戴いたしたいと存じます。
ケンポ― ここにいらしてくださった皆様に感謝申し上げます。『般若心経』をどう実践するか、『般若心経』の見解はどのようなものかについては、沢山の教えがあります。将来、機会がありましたら、それらについてお話したいと思います。皆さんにタシデレ(幸多からんことを)をお祈り申し上げます。