他人の幸せを目にしたとき、私たちの心には、二つの異なる思いが生じることがあります。一つは嫉妬心、もう一つは随喜の心です。
嫉妬心は、自らの心に不満を生み、やがて自らを苦しめます。一方、随喜の心は、他人の幸せを共に喜ぶことで、自らの心にも喜びをもたらすとともに、福徳の資糧を積むことにもつながるのです。
貪欲を抑えるには、どうすればよいのでしょうか。
仏教の教えに基づく価値観を身につけ、お金に対する正しい見方を養うことが、最も大切だと思います。
そのうえで、仏教の実践を通して心を磨いていけば、貪りの心を効果的に抑えられるようになります。
欲望を減らしてこそ、低炭素な暮らしが実現できます。
物質的な豊かさを追い求める欲を少しずつ手放すことが、環境への負担を減らす暮らしにつながります。
過度な欲望は、やがてさまざまな災いを招きます。
だからこそ、今を生きる私たちには、欲望との向き合い方を学び、足るを知る心を育むことが求められています。
低炭素な暮らしは、自らの欲望を見つめ直すことから始まります。
欲望がそれほど強くなければ、物質的な豊かさを追い求めることもないでしょう。
物質的なものを求める気持ちがもう少し控えめであれば、日々の暮らしもこれほど慌ただしくはならないでしょう。
暮らしのペースが緩やかになれば、心にかかる負担も軽くなるでしょう。
そして、その負担が軽くなれば、これほど苦労することもないでしょう。
――結局のところ、私たちの苦労の根底には、欲望があるのです。
いま、人類は二つの深刻な危機に直面しています。一つは、生態環境の危機です。もう一つは、心の危機です。
生態環境の危機を乗り越えるためには、低炭素な暮らしを心がけ、欲を抑え、足るを知ることが大切です。
そして、心の危機に向き合うためには、善悪には因果の道理があることを知り、その道理に従って生き、仏陀の智慧を学び、実践することが必要です。
私たちはいつも、あらゆる物事が自分の思いどおりに進むように努め、それによって満足や喜びを得ようとします。
しかし、どのような物事であれ、いつまでも私たちの望むとおりに動いてくれるものではないことを、認めざるを得ません。
だからこそ、自らの心を整えていくことこそ、最善の道なのです。
現代の多くの若者は、心の内に深い空しさを抱えているうえ、心の拠り所となる信仰や、心を鍛えるための習慣も十分に身についていません。
そのため、人生の中で、ほんの些細なことが思いどおりにいかなかっただけでも、それが大きな打撃となり、苦しみに耐えきれず、心が折れそうになってしまうことさえあります。
だからこそ、二十一世紀という時代は、これまでにも増して、私たち一人ひとりが精神的な支えを必要としている時代なのです。
私たちが苦しみに直面したとき、それを通して世の真実を見つめ直し、世界に対する正しい理解を育むことができます。また、その苦しみを、心を磨く力へと転じることもできるのです。
苦しみを善く生かすことができれば、私たちの人生は、そこからより豊かで、輝きのあるものへと変わっていく可能性があるのです。
現実の生活では、あまりにも完璧を求めすぎると、
かえって生きづらくなってしまいます。
なぜなら、この世界には、そもそも完璧なものなど
存在しないからです。たとえあったとしても、
それはほんの一時にすぎず、しかも非常に稀なものです。
もし、どうしても完璧を求めるのなら、
目指すべきは、ただひとつ――解脱なのです。
人間にとって、お金がないこと自体は、
恐れるべきことではありません。
さまざまな工夫をして、お金を稼げば、
富を築くこともできます。
本当に恐ろしいのは、お金を手にしても、
生きる目的を見失ってしまうことです。
それは、どれほどお金や名誉を手にしても、
決して埋めることのできない、
深い心の空虚さなのです。
正しい人生の目的を見いだすことこそ、
人間にとって何よりも大切なのです。
私たちはしばしば、
自分こそ賢く、他の人は愚かだと
考えがちです。
しかし実際には、多くの場合、
その「自分は賢い」という思いこそが、
深い愚かさにほかなりません。
動物の命を踏みにじり、自然を破壊する
さまざまな手段を生み出すことは、
まさに最大の思い上がりであり、
自ら滅びの道を選ぶ行為なのです。
うつ病は不安から生じ、
不安はストレスから、
ストレスは執着から、
そして執着は無明(無知)から生じます。
すべての根源が無明である以上、
では、どうすれば無明を
断ち切ることができるのでしょうか。
それには、無明と対極にある
智慧を育むことが必要です。
その智慧は、
仏陀の教えによって培われていくのです。
