このように世界と接し合う ―『慧灯・問道』生活篇 第1期

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2019-03-22
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皆さん、こんにちは。ようこそ『慧灯・問道』へ。近年、このようなお話がよく耳に入ります。ある大学や大学院の優等生が留学を諦めて出家を選び、一部の歌手や俳優たちも仏教に帰依し、出家さえして修行し始めました。『大唐玄奘』、『大話西遊(チャイニーズ・オデッセイ)』と『三打白骨精(西遊記 孫悟空VS白骨夫人)』のような仏教と関わる映画作品も次第に上映されています。パーティーなどの食事会の時に、一部の友人や身内の人が知らずうちに絶対菜食主義者になっていることを知らされ、まわりに仏教を信仰し、或いは仏教を学ぶ人がますます増えてきました。いま観客席にいる皆さんも、仏法に関心を持ち始めたばかりの方が多くいらっしゃって、さまざまな質問を抱えて現場に足をお運びくださったと思います。


それでは、仏教はいったいどのような魅力があって、これほどたくさんの人たちに好まれるのか。仏教を学ぶことは、私たちの生活にどんな利益をもたらすのか。今回のテーマはまさしく「仏法と生活」となっております。いま、この場に五明佛学院のケンポ・ツルティム・ロドゥ師をお迎えすることができました。
現場にいる皆さんの多くは仏法に興味を覚え始めたばかりのため、さまざまな質問があります。皆さんが特に知りたいのは、ケンポは昔、どういう原因で仏教を学び、出家されましたのか。そして、仏教を学ぶというのはいったい何を学ぶのか、学んだ後に私たちの生活にどう役立つのかについてもお話いただきたい。

A 1984年、五明佛学院を訪ねて本格的に仏教を学び始めました。その前に、小さい頃からすでに仏教に信心を抱いていました。そして、その時にすでにチャンスがあれば出家して仏教を学びたいと思っていたのです。この考えは一方は両親からの影響によるものかもしれませんが、もう一方は、個人的には、前世からの一部の影響もあると考えております。
その時代では、小さい時から仏法を学んでいた人は、身のまわりにはあまり多くはありませんでした。両親は仏教を信じていたのですが、その時は仏教活動もあまりなくて、家の中でも行われなかったのです。そのため、小さい頃の生活の中では、仏法の内容に関して印象深いものはありませんでした。それで、仏教を学びたいという考えが持てるのは、ある面は前世からの一部の影響で、ある面は家庭と両親からの影響だと思います。このような状況のもとで、五明佛学院を訪ねて法王ジグメ・プンツォ師に帰依し、本格的に仏教を学び始めたのです。その前に、ただ仏教がいいもので、学ぶべきだと知っていただけです。このような考えを抱いていたわけですが、当時は仏教の本当の真義についてはまだ知らなかったのです。佛学院に入ってから本気に習い始め、現在まで続いてきました。
三十年以上にわたる学習の中、最初の心得を述べると、仏教において最も重要な内容は如何に正しい人生観、世界観と価値観を確立するかということです。特に人生観と世界観は仏教の核心的な見解と観念なのです。
いままで外国のたくさんの科学者、哲学者や他宗教を学ぶ友人に出会ってきました。彼らとの交流を通して、自分の選択が間違いないということを思い知りました。自ら学び、体得した仏教の智慧は、科学の領域に置かれても、哲学の領域に置かれても、どんな領域に置かれても立脚できるものだと思っております。
また、仏教を学ぶ過程の中で、仏教の観点だけでなく、関連する方法も習得しました。仏教は多くの人が思っているような堅苦しいものではないのです。一部の具体的な方法は、出家者の生活に置かれると、出家者の本格的な修行方法になり、現代人の都市生活に置かれると、たくさんの人の心の問題を解決することもできます。そのため、この道を歩いてきたのは、間違いはないのだと思っています。
仏教を学ぶ道において、大いなる成果を得たとは言えませんが、これらはすべて仏教を学んだ後の心得です。今日、皆さんにこれらに関する知識をシェアする機会に恵まれて、とても嬉しく思います。いつも思うのは、現代社会は物質的な面から言えばすでに非常に豊かなものになっています。しかし、精神的な面においてはいまだに満たされていないと言えます。このままでは、私たちに満足感、安全感と幸福感をもたらすことができません。そのため、たくさんの人が非常に昏迷して、心を見失っています。何故かというと、物質的な領域においては、何が必要であるかは、私たちはよく知っています。お腹がすいたらご飯を食べればよいと、私たちは知っていますが、精神的な面ではいったい何が必要なのでしょうか。みんなほとんど分かっていません。どうも何かが欠けているようですが、では、いったい何が欠けているかと言うと、あまりはっきりとは知っていないのです。
本来、物質的財産はすべての問題を解決することができると私たちは考えていますが、これは物質的財産とは一定の距離がある場合に生まれた考え方です。物質的財産との距離をなくして、物質そのものが私たちに何をもたらすことができるか、何をまたらすことができないかについて充分理解できた時、私たちの従来の考え方には大きな転変が生じてきます。過去において、物資的財産はすべての問題を解決してくれると思い込んでいますが、物質的財産が満たされている現在、問題は相変わらず解決されていないのです。残りの未解決の問題は何なのか、どうすれば解決できるのか、これらの面については、私たちはすべてはっきりと分かっていないのです。
心理学研究者たちは研究を行って、さまざまな簡単な方法を通して私たちの心の問題を解決しようとしています。例えば、多くの場合は薬を飲むなど物質的なアクセスで解決を求めていますが、最終的には失敗に辿りつき、通じない道に挫けてしまいます。実を言うと、仏教の中には生活に用いることのできるものがあるのです。例えば、仏教の一部の観点や理念をまるごと受け入れなくてもかまいませんが、仏教にあるいろいろな方法を生活に用いてみると、たくさんの問題を解決することができます。例えば、アメリカの多くの学校や医療機関では、瞑想が広く普及しており、彼らが行っている瞑想のうち、一部は上座部仏教―ミャンマーとタイの内観禅、もう一部はチベット仏教によるものです。チベット仏教の中の瞑想は、主に慈悲禅であって、自他交換などの瞑想もあります。これらの瞑想を行う人は必ずしも仏教徒とは限りません。多くの科学実験に発見されているように、瞑想、特に慈悲禅と内観禅は、多くの人々の心の問題を解決しています。仏教の視点から言うと、人の助けにさえなれば、それにこしたことはありません。ということで、仏教は現代の私たちにとって、東洋の人にせよ、西洋の人にせよ、どんな生活のタイプを取る人にとっても、何らかの役に立つに違いないと思っています。

H 仏教を学ぶには、主にどんな方面の知識を学びますか?

A 仏教の教えはとても多いです。しかし、大乗仏教の真髄は二文字―「智悲」でまとめることができます。「智」は知恵、「悲」は慈悲深い心を指す。
では、なぜ「智」と「悲」なのでしょう?まず、大乗仏教の考えでは六道輪廻の中で、人間や天人などにも幸福、快楽はありますが、これはあくまで短く、相対的なものであり、私たちはどんなに輪廻の中で遠く行っても、やはり最後に戻ってくるのです。なので、私たちは輪廻を越える方法を考えなければなりません。どうやって輪廻を超越するのか?線香をあげたり、仏像に礼拝したり、お金を寄付したりするようなことでなく、知恵を伸ばすことこそ超越する方法なのです。
私たちはなぜ輪廻を超越できないのでしょうか?どんな力が私たちを輪廻させ続けるのでしょうか?仏教は造物主や万能の神などを否定し、物事はすべて自然の法則で運行していると考えています。つまり、仏教は無神論を唱えます。
仏教の教えでは人間が輪廻する主な原因は自分自身の無知にあります。私たちは愚かで無知で世界の真相も、人生の真相も知らず、そのために一連の輪廻を招いたのです。もし源流から輪廻を解決しようとするなら、無知を断ち切らなければなりません。これは焼香、寄付などの方法ではなく、抜群の知恵が必要です。
抜群の知恵は人間を輪廻から抜け出す唯一の救いになります。私たちは輪廻から抜け出した後、「華厳経」の中の二つ有名な教えに従います。一つ目は輪廻を超越しなければならないことです。二つ目は輪廻から離脱しないことです。この二つの教えは大乗仏教の原則です。私たちは輪廻を越え、その後輪廻から離れないのです。離れないというのは越えた後、悩みや老死の苦痛はなくなりますが、これですべての問題は解決したというわけではないのです。これはただの始まりに過ぎません。その後は何をするのか?その後は極楽浄土に往生すればよいのではなく、この人間の世界に戻り、超越する方法をほかの人々に教え、もっと多くの人に輪廻を越えさせるのです。これは輪廻から離れないということです。
慈悲深い心があってこそ、離脱しないでいられるのです。知恵と慈悲の心があれば、輪廻を越えると同時に輪廻から離れることはありません。これで十分だと大乗仏教は考えています。なので、大乗仏教のすべての内容はこの二つのキーワードにまとめることができます。
仏教を学ぶのもそうです。私たちはまず仏教の教えを信じて、仏陀様、菩薩様が私たちを守ることができると信じます。または、線香をあげたり、仏像に礼拝したりすることが功徳を積むと信じます。しかし、供仏することも仏を求めるのも真の仏教徒とは言えません。真の仏教徒は仏陀の教えを学ばなければならないのです。では、仏陀に何を学ぶのでしょうか?一つは知恵、もう一つは慈悲です。仏陀の知恵と慈悲を学ぶことで真の仏教徒になるのです。

Q ケンポ、仏教においてずっと私たちに対して「放下」と言い続けてきて、「執着するな」と教えられてきました。しかし、今私たちは仏教を学ぶこと自体が執着ではないかと思っています。例えば、すべての肉類やニンニクなど匂いのきつい物とかは食べてはいけないとか、仏様や菩薩の名前を唱えるような念仏という修行をしなければならないですよね。これらについて、私はちょっと理解できないです。ご指導をお願いいたします。

A はい、たくさんの方がこのような疑問を持っています。仏教は確かに私たちに対して、たくさんの執着を放下しなさいと教えています。しかし、これらの一切の執着を捨て去る事には、それなりのプロセスが必要です。今現在すぐにはすべての執着を投げ捨てることは、まったく不可能です。あなたがおっしゃる通りです。私たちは現在一時的にまず素食を食べたり、戒律を守ったり、そして読経して勉強したりします。これらは全部執着そのものです。
しかし、これらの執着を通して、徐々に執着のない境地に到達することができ、最終的に素食を食べることや戒律を守ること、読経することも勉強することを含むこれらのすべての執着を手放すことができます。でも、これらは機が熟す時になってからようやく手放すことができるのです。或は、あなたが一定の境地に到達した時にようや捨て去ることができます。例えていうと、私たちが船に乗って川を渡ろうとします。川を渡っている最中は、船を捨ててはいけません。あなたが川を渡り切って彼岸に着いたらようやくこの船が要らなくなります。先ほど私が言った「菩提心」も含まれています。もし、これらの執着がなくなったら、私たちが仏教を勉強・修行する原動力がなくなってしまいます。
禅宗を学ぶ時、「放下」についてよく言われます。浄土宗を学ぶ方は普段から敬虔に念仏しましょうと言われます。ここで疑問が生じ、戸惑う人がいます。「捨て去って執着してはいけないですか?それとも敬虔に念仏することが良いですか?いったいどちらですか?もし執着せず手放すというなら、念仏自体も執着そのものです。私が西方浄土に行きたいというのも執着の一つです。でも、もし私が執着に精進しないと、敬虔に念仏することはできず、そのために阿弥陀如来様にお祈りをささげることもできず、阿弥陀様が私をお迎えしてくれなくなります。」
いったいどうしたらいいですか?どうすべきですか?虚雲和尚(訳注:1840-1959年。近代中国禅仏教の最高峰の高僧です。)は著書の中でこれについて言及したことがあります。浄土宗と禅宗は対立や二者択一なものではなく、互いに圓融(融和、互いに妨げない)ものです。「禅浄双修」と言います。すなわち禅宗と浄土宗は、両方ともに修行することができます。つまり、禅の修行を通じて悟りを開き、徐々に執着を手放すという目標に達します。しかし、そのような高い境地にまだ到達できてない時に、私たちは念仏と素食などの方法を通じて自分の境地を高めていきます。だから、浄土宗と禅宗の修行は互いに助け合うもので、矛盾することではないです。要するに、最終的には確かに放下しなければいけないが、しかし執着を捨てるには経過があるので、現在すぐに捨て去ることではありません。

Q ケンポおっしゃったことはとても素晴らしいです。慈悲心を持ちたいですが、しかし現実的には難しすぎます。仕事の重圧で、もし私が慈悲の心を持ってライバルにクライアントを譲ってしまったら、私自分の業績が無くなり、収入も他の人より少なくなってしまいます。このような問題に対して、私はどうしたら良いですか?

H 私の理解では、彼が言いたいことは、もし彼自分が慈悲心つまり優しい心を持てたら、他の人が彼を利用してしまい、そうなると彼自身が自分の収入を手にすることができなくなってしまいます。

A はい。熾烈な競争の中において、もしあなたがすべてのチャンスを他人に譲ってしまって、まったく競争しないとしたら、それによってあなた自身は業績がなく、給料も下がり、最終的に自分自身の生活・生計にも問題が生じてしまいます。そうなると、仏法の勉強と修行においても難しくなります。困りますね。しかし、慈悲心はイコール放棄、自暴自棄ではなく、諦めるとは違います。慈悲心は軟弱や消極的とは違います。正当な競争は問題ないのです。
例えば、あなたと同僚は一つの仕事をして、このプロジェクトは本来その同僚の担当で、彼のものでした。しかし、あなたはいろいろな世俗的な手段を使って本来彼の仕事を奪ってしまったら、それは良くないことなのです。しかし、もしその仕事はみんなだれでも担当できて、一人の個人的なものではない場合、あなたが競争して、これは正当な競争です。これは仏教の慈悲心と相反することではありません。「慈悲心」というのは、他人が苦しんでいる時、その人の苦痛が無くなることを望んでいることです。普段なら他人が幸せになることを望んでいることです。
しかし例えば競争のような多くの場合は、あなたが全ての機会を他の人に譲ってあげると言う意味ではないです。ですから、競争自身は問題がありません。仏教の在家信者が、やってはいけないことは10種の罪悪があります。それを「十不善業」と言われています。この「十不善業」の中に、最も根本的で、最もやってはいけないことは、殺生、偸盗、邪淫と妄語、この四つです。仕事と生活の中において、これらのことさえしなければ、他の多くのことはあんまり問題にはなりません。或はそんなに深刻な問題ではないです。もし仏教徒だから競争してはいけないなら、全部他人に譲らなければならないなら、そうしたらみんなが仏教を学ぶことを敬遠してしまうことになります。(仏教を学ぼうとする人すらいなくなってしまいます。)だから、正当な競争は問題がないのです。