渇望は一切無駄

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2024-05-20
作者: ジグメ·プンツォク·リンポチェ口述、ケンポ·ソダジ·リンポチェ翻訳·編集
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私たちはすべての人や物事に対して、貪欲な心を掻き立てはいけません。なぜでしょうか?貪欲を掻き立てるもの全ては、その性質を観察すると、水泡のようなものと知れます。そこに実体はありません。そのようなものに対して、一体何を渇望することができるのでしょう?

外的対象物全て、不変の実体は無いことがわかったら、私達自身の内側に目を向けて観察してみましょう。私達の心に生じる一つ一つの思考や想いは、リアルで鮮やかで堅固かもしれません。しかし、注意深く分析すれば、それは刹那のものに過ぎないと分かります。

思考·想いは、瞬間的に発生し、そして消えていきます。それは、あたかも虚空のように、どこにも見い出すことはできません。

渇望する対象は実体なく、渇望する心もまた実体なくば、一体何を渇望するのでしょう?

「渇望する対象は本質的に存在しないのに、なぜ渇望する心がまだ湧いてくるのだろう?」と不思議に思うかもしれません。これは非常に残念なことです。無明に覆われている世俗の人々は、本質的に実体のないものを実体視し、それに執着し、悩み、苦しみます。これは、自分自身で自らに罠を仕掛け、その罠に狩られるようなものです。

渇望(の対象)の実体は空であることを知っているだけでは不十分です。車の運転を勉強し分っただけで、実際に運転したことがなかったなら、車の運転ができるとは言えません。

仏教には悟りを得る方法がたくさんあります。中観の方法で推理し、観察することもできますし、マハームドラーやゾクチェンの方法で、師から直指教導を受け、心の本質を観ることもできます。いずれの方法を使うにせよ、「究極的に一切の現象の本質は空性であるが、あなたはその空性にすら執着してはいけない」ということを肝に銘じておく必要があります。