すべての不幸は分別する心から始まる

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2024-07-01
作者: ジグメ·プンツォク·リンポチェ口述、ケンポ·ソダジ·リンポチェ翻訳·編集
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身だしなみや綺麗な言葉遣いだけに注意を払い、外面的な態度、立ち居振る舞い が適切かどうかだけを気にする人々もいます。しかし、彼らは自らの心の動き·働きに ついて見落としています。

これは例えて言うなら、顔を洗ったり、入浴はしているが、自らの心を清めることは知らないのと同じです。

この人間の世界において、分別する心の働きが私達に無限の苦しみをもたらしてきました。

たとえば、貪欲を考えてみましょう。男性が女性を愛し、結婚するとき、最初は彼女の美しさに目を奪われます。しかし、時と共に彼女に対する興味は薄れ、やがて愛おしく思わなくなります。そして、違う女性を追いかけ始めます。しかし実際には、かつて憧れた女性と嫌悪する現在の妻は同一人物です。

このように過去と現在の態度が大きく異なるのは、分別する心の欺瞞によるものです。ひとたび、この分別する心に捉われ惑わされたならば、人は風になびく綿糸のように漂いながら、今日はAを求め、明日はBを好みます。結局のところ、ひとたび心を奪われた女性も、平凡な女性として色褪せるでしょう。

考えてみてください。もし、美しさが永遠不変ならば、この男性のように変心する筈はありません。一度誰かを好きになると、その人を永遠に好きでいられる筈です。そして、世界中の誰もが同じように行動するでしょう。しかしながら、実際にはそうではありません。また、ある男性は、ある女性を非常に魅力的で息を呑むほど美しいと感じますが、別の男性は彼女に対して興味を持ちません。これらは分別する心の働きの差異によるものです。

別の例をみてみましょう。人は糞便を不快に感じ、不潔なものと見なしますが、豚や犬にとっては珍味です。美しい·汚い、善·悪というすべての判断は、その時々に生起する分別する心の働きに由来します。

実際のところ、外的対象には絶対的な善も悪も存在しません。世界のあらゆるモノの性質は無常であり、空性で、信頼に足るものは一つたりともありません。しかし、盲目的に分別する心の働きのせいで、私達は外部の対象が不変で確固たるものと誤認識し、不浄なものを純粋なものと見なし、苦しみを幸福とみなし、無常なものを永遠なものと見て執着し、その結果、自らの心を足枷で縛り、様々な誤った行動をとってしまうのです。

例えば、多くの男性が若く美しい女性を追い求め、結果として莫大な代価を支払ってきました。しかし、何の甲斐があるのでしょうか?分別する心は私たちに際限無き不幸をもたらし、私たちを欺いて何の意味もないことに時間を浪費させます。

私たち一人一人が、この悪しきサイクルに早く気づき、ダルマの智慧で根絶しなければなりません。私たちは、分別する思考はすべて、張子の刃のようなものだと理解する必要があります。私たちがその本質を認識すれば、この偽のナイフは、もはや私たちを傷つけることはできません。そうでなければ、私たちは分別する心の働きに振り回され続け、いかに多くの物をことごとく手に入れたとしても、決して真の幸福を手に入れられないでしょう。