私は世界で最も卑しい者です

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2024-06-17
作者: ジグメ·プンツォク·リンポチェ口述、ケンポ·ソダジ·リンポチェ翻訳·編集
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プライドとは、自分の知識や財産などに満足感を持ち、それを言葉や行動で誇示することです。大多数の人々は、自らの富、地位、才能の全ては、前世の善行の結果であることを理解していません。もし、この(善なるカルマの)果に自惚れるだけでは、基盤となった徳が尽き、心の中には功徳を生み出す術が生じません。

傲慢な心を持つ人は、常に自らの知恵が優れ、己の才能は比類なきものだと信じています。しかし、よく観察すれば、それは取るに足らないことが分かります。

例えばですが、才能や容姿等、あなたがある特定の分野において際立っているとしましょう。しかし、世界にはその何倍もの能力や知性、才能を持ち、その分野で優れている人々がたくさん存在することを忘れないでください。たとえ、あなたの功徳や才能が余人の及ばぬレベルにあったとしても、修行を積んだ聖者の中にはあなたを超える人がいます。そして、功徳の結果で現れた現象は永遠ではなく、ただ因と条件が集まって生じたもので、無常です。

私がセルシュルで勉強していた時、ケンポ(大学者)チョーギュル、ケンポ·パルゾムに出会いました。ケンポ·チョーギュルについてはよく知りませんでしたが、彼の功徳と修行の境地は想像を絶するものでした。生涯を通じて甚深な教えを修行し、亡くなる直前まで、弟子達にダルマを教え、聞·思·修に励み、自らの生涯を完成させました。

ケンポ·パルゾムには、五部大論等の多くのダルマを教えていただきました。以前から、彼の智慧と人格は非常に優れていると聞いていました。2年前にお会いした際、彼の智慧はより磨かれ、かつ微塵も傲慢さがなく、依然として非常に優れた人格者で、いかなる所作にも細心の注意を払っていることに気づきました。「修行者は、まさに彼のようになるべきだ!」と私は感服しました。

若い頃、自分の知識は彼らのそれを上回ると感じましたが、晩年になって思うことは、彼らの至った境地は私の遥か先を行っているということです。これは何を物語るのでしょう?先に述べたように、私たちの長所や特性はあくまで、今この時の一時的なものに過ぎず、それをもって得意満面になる必要など全く無いということです。

当時、私の師トゥプガ·リンポチェには、卓越した智慧をもち、戒律を厳守する修行者は、まるで星の数のごとく、たくさんいました。しかし、今では多くの人が極めて悲惨な状態に堕落してしまいました。しかるにまた、戒律を厳しく守らず、智慧も浅かった人が、今では並外れた行者や僧侶になっていたりもします。

これらを振り返ると、今現在、私たちは知恵や富に恵まれていたとしても、これらは永遠不変ではありません。ゆえに、今持つ知性や富を誇って他人を軽視するべきではありません。

修行によって他心通を得る前に、私たちは他人の心の中に隠されている功徳を見ることはできません。このことを知っていただければと思います。ある人の言動は、一見不適切なものかもしれません。しかし、実際には彼の慈悲と功徳は海のように広大かもしれません。それゆえ、私たちは誰に対しても軽蔑や傲慢な態度で接するべきではありません。

たとえ、非常に悪しき行いをなした人でも、罪禍と功徳は全ての病を治す薬に糞尿混じるが如しです。そこで私達は、一体何を誇示し自慢することなどできましょうか?

自らに少しの功徳があり、その果報が現れたからといって傲慢に誇示しても、かたや一方では燃え盛る苦しみに苛まれる現実もあります。それを省みれば、どうして傲慢さを持つことを深く恥じ入らずにおれましょう?

“私は世界で最も卑しい者です”とドムトンパ尊者が仰ったことがあります。アティーシャ尊者も”もし、人が真に学び続けるならば、その人はとても謙虚になるでしょう”と仰っています。これら殊勝な功徳を持ち、すべての過患を離れた大成就者方は、すべての衆生に対し、平等かつ非常に謙遜に接していました。しかし、我々一般の者は塵の如くたくさんの過失をなします。それでいて、いったい何をもって傲慢不遜になれるのでしょう?

極めて傲慢で独善的な人は、往々にして(※前述の)魔の花矢に当たってしまいます。ですから、私たちは決して自分が一番だと思ってはなりません。謙虚で控えめであることを学ぶべきです。飼いならされた駿馬のように、どんな人であっても自らに騎乗させ、敬意をもって他人のために仕事をします。

つまり、一切は勝義諦において虚空のようであり、いかなる貪·瞋·痴もありません。一方で世俗諦において、幻のような顕現は不滅です。ゾクチェンの精髄の教えで自らの心を飼い慣らせば、全ての現象には確固たる実体は無く、見聞するものすべてが空性であり、同時に世俗諦においては輪廻のすべては確固たる現れの様、ゆえに全てを幻想八喩(幻·陽炎·夢·鏡像·光影·こだま、水中の月、蜃気楼)と観じます。これが大いなる中観やゾクチェンの考え方であり、文殊菩薩の大悲の智慧の剣です。

この智慧の剣を振るうことで、我執と煩悩を断ち切り、無明と妄想を破壊することができます。無明と妄想を根絶することができれば、3本足で支える頑丈な鼎も、足1本が折れたら残りの2本足で支えられなくなるように、魔の宮殿全体が完全に崩壊し、その後、いかなる魔もあなたに危害を加えることはできません!