無知·迷妄、妄想により、私たちの一時的な喜びも、長期的な喜びも覆い隠されます。それは、何故でしょう?
無明から煩悩が生じ、煩悩から悪業が生じ、そして悪業はまた、様々な苦しみをもたらすからです。このように、無明は悩みと苦しみの源であり、全ての過失の源でもあります。
すべての衆生の心には、大魔王が潜んでいます。その大魔王とは無明です。
善悪因果の取捨選択も、ダルマを知らず、ダルマについて聞·思·修を為さないことも一種の無明です。
戯論から離れた空性について、少しも認識していないことも、また一種の無明です。
偽りのない因果における縁起の法則を全く理解しないというのも、やはり一種の無明です。
今、私たちが断たなければならないのは、カルマに基づく行為の影響を理解しないという無明です。
そして、最終的に根絶しなければならないのは、一切の現象の本質を理解しない無明です。
無明や妄想で心が覆われていることは、あたかも悪しき呪文の魔法にかけらているようなものです。その人の前途はますます暗い道へ、暗い道へと誘導されるでしょう。
では、私たちは如何にして、無明をなくすことができるのでしょうか?
答えはたった一つです。それは、慈悲深く慈愛に満ちた釈迦牟尼仏陀の教えです。
この世で、すべての無明·迷妄を完全に断ち切ったお方は仏陀のみです。弥勒菩薩や文殊菩薩などの菩薩方は、極めて高い悟りの境地に達していますが、衆生の心を 苦しみから解放するには、仏陀の教えに頼らなければなりません。
例えば、菩薩の第十地に安住し、未来際にこの賢劫の5番目の仏陀となられる弥勒菩薩が著した『現観荘厳論』の内容も、釈迦牟尼仏陀の般若経に依拠しています。
一部は『大般若経』、また一部は『中般若経』、更に一部は『般若摂頌』に依拠しています。『大蔵経』を詳しく調べ、読んでみると、『現観荘厳論』のすべての偈が、その出典を仏陀の経典に遡ることが判ります。
『現観荘厳論』中の多くの教えでは、弥勒菩薩がダルマの深く隠された意味を明らかにするため、経典にどのように依存したかについて、具体的に言及しています。
同様に、ナーガルジュナ等、十地の修行段階に達した菩薩の多くも、ダルマを説き示す際、仏陀がお説きになられたものに依拠しなければなりません。
しかし、仏教を最低限しか理解していない普通の人々の中には、自分は仏教をすべて知っていると思い込んでいる人もいます。
彼らは傲慢で、軽々しく仏陀の教えに疑問を持ちます。このような愚かな振る舞いは、本当に哀れむべきです。
智慧を磨くために、仏陀の教えを注意深く調べ、分析するのは全く理にかなったことです。
しかし、むやみにダルマを否定しようとすることは、とんだ痴れ者の行為に他なりません。
現在、あらゆる種類の誤った教えが際限なく出てきています。皆様が仏陀のダルマを説き示す時には、くれぐれも仏陀の教えから逸脱しないようにしてください。
また、自分自身の分別する心で、ダルマの解釈をしてはなりません。そうでなければ、本を著すにせよ、人々にダルマを語るにせよ、これらは無明·迷妄、妄想の解毒剤とならず、ただ単に無明の働きに協力しているに過ぎません。